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[コメント] 赤ひげ(1965/日)

兎にも角にも、おとよ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







佐八(山崎努)の挿話では、それまでの挿話で描かれていた「厳しい現実」が、今回はいかにもメロドラマとしての悲劇性を高める為に用意されたと思しき虚構性を感じさせ、それまで画面に惹きつけられていた感情が、急に殺がれてしまう。

尤もこの挿話は、単体としてよりも、それが保本(加山雄三)に与えた影響の方が、映画全体に於いては重要なように思う。保本自身、佐八と同じように、許嫁のちぐさ(藤山陽子)が他の男の許に身を寄せる、という裏切りに遭っており、それを根に持っていたのだが、対照的に佐八は、女への純愛を抱き続け、自身も病身であるにも関らず、赤ひげ(三船敏郎)の療養所の他の患者たちの面倒を看ていた。だからこそ佐八の死後、保本は、過労で倒れるほど働いたのではないか。

更にこの後、保本の抱いていた僻みなど問題にならないほど屈折し、暗く沈んだ性格の少女、おとよ(二木てるみ)が登場する。彼女の、見えざる壁に閉じこもったような、他人に対する徹底的な不信は、全篇で最も普遍的かつ現代的な病態であるだろう。実際、他の挿話に比べて、おとよに関わるシークェンスは、時代設定に伴う距離感が殆ど無く、他のシークェンスとはまるで空気が違うように感じられた。

おとよが、口許に近づけられた薬の匙を手で乱暴に払う場面に、赤ひげの性格がよく表れている。保本が往生しているのを見て交替した赤ひげは、おとよに払われても、繰り返し、同じように匙を向ける。そして遂に薬を飲ませるのに成功する。彼は何か特別な事をしたのではなく、ただ辛抱強く患者に向き合っただけだ。他の場面でも赤ひげは、その髭を撫でながら忍耐強く対象を見つめる。彼はこの映画に於いて「主人公」というよりは、一つの場の空気のような存在であり、主人公は、個々の挿話に於ける患者たちだと言えるだろう。医者としての姿勢がそのまま物語上の立ち位置となっているのだ。

おとよは無言でいる場面が多い為、照明の当たり方や構図によって人物描写が為されているのがよく分かる。彼女が部屋の隅から、暗中、目だけをギラギラと光らせる姿に、不信という闇の底から他人を見据える彼女の狂気が漲っている。本作は、衣裳や美術、小道具には写実性が目指されている半面、こうした幾つかのショットには、表現主義的な演出が為されている。おとよへの照明の当たり具合、その顔の明るさで、彼女の心境なり状況なりが感じ取れる。

周りの世界から自らを隔絶させるように、ただ一点を見つめて黙々と床を拭く、おとよ。保本に心を開きかけた頃に、看病疲れで寝込んだ彼の傍らで拭き掃除をする姿に、一瞬、また症状が戻ってしまったのかと思わせるが、その仕種からは堅さが抜けており、同じ所を何度も拭くのではなく、ちゃんと掃除をしているのが分かる。彼女が開けた窓の外に降る雪の白さ。こうした影と光の按配が実に巧みで、黒澤のモノクロでの最後の作品に相応しい。

皆から、可愛げのない娘だと嫌われていたおとよが、同様に皆から批難される存在である泥棒の少年・長次(頭師佳孝)を匿う辺りが、この映画のクライマックスなのではないか。一家心中で瀕死の彼が療養所に担ぎ込まれた時、病室の外で心配するおとよを捉えたショットでは、ちょうど廊下の曲がり角に立つ彼女の姿を、仰角気味に撮っており、そのアングルや、曲がり角で光と影に二分された構図が、不安な心情を代弁している。

長次の臥せる病室の外から、彼の名を呼ぶ女たちの声が聞こえてくる。「井戸は地下に通じているから、そこに呼びかければ霊魂を呼び戻せる」と聞いて、駆けだすおとよ。そして、長次が命を取り留めた時、井戸の底に呼びかける女たちの姿が、井戸の水に反映したショットが現れる。これは、仮に長次の魂が井戸の底から上がって来たとしたら、見ていたであろう光景だ。ここでカメラは、写実的であり同時に霊的(精神的)であり表現主義的でもあるという、まさに「映画的」な位置に存在しているのだ。

長次の息が乱れた時、おとよは「母さんが死んだ時と同じ」と言っていた。長次の回復は、おとよにとっての癒しという意味もあったように思える。彼女が他人を救うようになる事が、彼女自身の救済でもあり、これは、赤ひげや保本らの、治療者として奮闘する動機をも同時に描いていたと言えるだろう。

(評価:★4)

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