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[コメント] どですかでん(1970/日)

赤ひげ』に続く周五郎原作だが印象はまるで違う。ロシア文学的な貧者救済のパッションが消え失せた諦念の現状肯定は、クロサワがクロサワをやめて渋谷実になったかのようだ。保本(加山雄三)がこの部落を見たらどう思うのだろう(含原作との照合)。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







○「街へゆく電車」・頭師佳孝の知的障碍の息子と母菅井きん:頭師は朝に始まり夜に終わるオムニバスの統括役で、原作にこの役割はない。主役というほどではない。頭師の造形は『本日休診』の三國の遥拝隊長が漠然と想起される。彼の存在の現状肯定が映画の基調になっている。彼の電車に客が乗ることはない。菅井の唱えている念仏は日蓮宗で、これも当時類例の多い描写。2年後の深作『人斬り与太 狂犬三兄弟』でも、田中邦衛の母の菅井は湿地帯住まいで何妙法蓮華経を唱えている。何で彼の電車には、客が乗らないのだろうか。

○「とうちゃん」三波伸介楠侑子の子沢山。:全部拾い子らしいと判ってくる。これが一番いい件かも知れず短いのが惜しい。三波の演技は滅多に見られないが、腹出した人情語りで当然上手い。

○「僕のワイフ」伴淳丹下キヨ子の鬼嫁かばう障碍もつ亭主。:三波もそうだが、イジワル女と耐える男という設定は周五郎らしい。伴淳は顔面神経麻痺の演技を頑張っていて見処だが、それをどう観ていいのか判らなくて戸惑わされるところがある。丹下は若い頃はあんなに顔が長かったのに、中年になって肥ったら丸顔になっており、こちらの方が不思議だった。

○「牧歌調」田中邦衛吉村実子井川比佐志沖山秀子のスワッピング。:何ということもない。酔って帰った井川へ沖山の「臭い。また鬼殺しを呑んだんだね」という科白があり、コンビニでよく買う鬼殺しとは昔から安酒の代名詞なのを学んだ。

○「がんもどき」松村達雄山崎知子。酒呑みの無職の男が姪を孕ませる話。:これがつまらない。善人の表出が上手い村松は悪人になりきれず半端、適役ではなかったと思う。ただ、山崎が内職している造花の色が鮮やか。

○「枯れた木」芥川比呂志奈良岡朋子。廃人のような男と押しかけ女房。:淡泊でつまらない。原作も同じである。芥川が作っているのはマットレス。ベケット風の住まいの美術はいい。

○「プールのある家」三谷昇川瀬裕之の浮浪者親子。:本作は三谷昇の傑作だろうが、映画が傑作とは云い難いだろう。色彩豊かな映画なのだが、この件において、色彩のごちゃ混ぜがふたりの顔の灰色に収斂したような印象がある。三谷の屁理屈好きは「がんもどき」の松村の繰り返しになってしまっている。三谷が何云っても「そうだね」と返事する川瀬の科白の演劇的なリズムが何とも云えない。諦念の果ての従順なのだろう。

そして、最後の子供の墓穴が想像の新居の巨大プールになり三谷が驚く(喜ぶのかもしれない)、という纏めは何だっただろう。解釈の余地があるが少なくとも悪意があるのは確かだろうが、どう捉えていいのやら見当がつかない。原作に、このプール急拡大の件はない。原作では、息子が寝込んだとき、作者は(例外的に)地の文で父親を批難する。「さあきみ、すぐにその子を抱いて医者へゆきたまえ」。そして死後、墓石もない墓に参って父親は息子に語りかける。「きっと作るよ。、きみがねだったのは、プールを作ることだけだったからな」「きみはもっと、欲しい物をなんでもねだればよかったのにさ」。ラストでもう一度混ぜ返す巧みな収束で、映画の異常さとはまるで似ていない。

さらに(原作は普通の連作短編だが)映画は同時並行で各物語が語られるのだが、この息子が死んだ次のショットは、スワッピング中の吉村と沖山のエロい井戸端会議になる。この編集も狂っていると思う。

○「たんばさん」渡辺篤の達観した爺さん。:酔って刀振り回すジェリー藤尾に「お疲れだから代わりましょう」と進言し、藤尾は酔いが醒めてやめてしまう、という寸劇があるが、普通はこんなことで酔漢は乱暴を止めないと思う。小島三児の泥棒に財布を教えたり、「きれいさっぱり死にたい」という老人藤原釜足に劇薬与えて、釜足がシマッタとうろたえる寸劇も同様で、都合が良過ぎると思う。

酷い男と耐える女の関係は古来山ほどある。周五郎が新しかったのは、酷い女と耐える男という逆パターンで『さぶ』や『青べか物語』のような傑作をものしたことだと思う。無論、酷い男と耐える女も書いた。本作はそショーケース。ひどい男は松村、芥川。三谷も息子に対して酷いだろう。酷い女は楠、丹下。田中邦衛の組は双方酷くて絶妙に噛み合っている。そして母ひとりの菅井がいて、一人ものの渡辺篤がいる。しかし、こう並べられると、パターン化、システム化されているのが見えてシラケる処がある。『青べか』のような地域限定でなく架空の土地を描いて抽象に堕してしまった。これは原作からしてそうだと思う。「人生は巡礼だ」の感銘はどこにも見当たらない。

なお、映画に採用されなかった短編は右翼の先生を揶揄うなどの政治ネタが多い。子供の映画ファンはクロサワから入るものだから、本作も当時はオリジナリティ溢れるものだと思い込んでいたが、そんなことはない。三隅・新藤の『酔いどれ博士』や深作の『解散式』、森崎の『盛り場渡り鳥』や『生まれかわった為五郎』など、不法占拠の部落を舞台にした映画は本邦に数多く、本作はこのジャンルの一本で、出来がいい方ではない。本作はダルデンヌ兄弟が好きらしいが、他の邦画も観てよと云いたい。

再見。最初は学生時代で消化できたとは思われず、始めて観たようなものだった。昔は本作をベタだと嫌った記憶がある。若い連中はベタが嫌いなものだ。技法としては暗騒音も聞こえない、不自然を狙ったに違いない無音状態が続くのが、へんな色彩と相まってファンタジーの印象を醸し出していた。これはその後のクロサワ現代劇を特徴づけるものだった。

(評価:★3)

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