[コメント] 夢(1990/日)
黒澤リアリズムとでも呼べる実写へのこだわりは、事実を記録する科学映画やドキュメンタリーの方法だろうと思う。自分のイメージが画面に定着するまでしつこく待つという方法論。本作品の夢は文章で読むとそれなりに面白いが、映画としてみると退屈なものが多い。この夢の観念は映画的イメージというよりは言葉による観念的なものだからだ。あるいは黒澤は絵としての夢を見ていたのかもしれない。それは現実とは違うイメージだ。夢を現実に起きたこととして写実する、という方法が合っていない。
この中で切迫したリアリティを感じるのは、生き残った自分が死んでしまった部下に対面する「トンネル」である。黒澤明は1920年生まれ。敗戦時は25歳。戦争で死んでいった人々に対する贖罪の気持ちを強く持っていた世代である。黒澤と13歳ほど年長の私の父から生き残ってしまった人間の後ろめたい気持ちは直接聞いたことがある。「余生みたいなもんだ」という呟きとして。あるいは職場の先輩教師が飲み会で口走った言葉として。
それ以外のエピソードは、作り物感が強く夢の描写とは違うと思ってしまう。意識的努力を超えた彼方から立ち現れる夢という現象を画面の全てを自分の想い通りに制御して余すところなく描くという意識的企みは基本的に矛盾している。ファンタジーを映像化しようとする黒澤の方法は実際に演じている舞台を通じてファンタジーを見せる演劇の方法だ。狐の嫁入りや雛人形の踊りが歌舞伎や能のイメージを持って語られるのはそのためだ。そしてそれはある部分成功している。しかしそれは演劇の記録映画であって、映画表現そのものはもっと自由なはずだ。
不謹慎を承知で言うと赤富士・鬼の映像は2011.3月当時youtubeに上げられていた多くの映像にとても及ばない。跳ね橋が動画で見えたとしても、実物の静止している絵の方がやはり上だろう。事実の記録以上の映像体験を映画は提供できる。漱石の夢十夜が黒澤監督の念頭にあったのだと思う。言葉として提示された夢十夜、それ以上の表現を映画で示したい、そう思っていたのではないか。その試みは無残にも成就しなかった。
晩年3部作ー夢・八月の狂詩曲・まあだだよ、は映画とは何かを示す貴重な作品群と言える。
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