[コメント] 二十四時間の情事(1959/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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広島で出逢った男女が交わす、「君は広島で何も見ていない」「私は全てを見たわ」、という台詞が繰り返されるやりとりで有名な、この映画。冒頭の十五分間ほどは、この会話が流れる中、二人のベッドでの抱擁と、原爆投下後の広島の記録映像とが、交互に映し出されるのみ。
しかし、このあまりにもシンプルなシーンが、実はこの映画の白眉なのかも知れない。「病院も見たわ」「博物館も見た」「焼け焦げた皮膚、女性たちの、抜け落ちた髪も見たわ」と何度も訴える女に対し、男は「君は何も見なかった」。「ヒロシマ」という名に触れたとき、そこに文字通り‘焼きつけられた’悲劇を思わずにはいられないが、単にそれを知識として知っているだけで、その悲劇を見てはいない。だが、「見る」とは何か?起こった出来事の証拠となる痕跡を目にすれば「見た」事になるのか。むしろ、「見た」つもりになる事で、出来事そのものの取り返しのつかなさからは、遠ざかってしまうのではないか。
主人公である二人、フランスから広島の映画を撮りに来た女優と、広島で家族を失った日本人男性は、互いに名を知らないままに愛し合う。女が語る、フランスのヌヴェールに居た頃の思い出は、彼女が恋愛を通して、自分の国から精神的に追放された出来事であり、その記憶の恋人は、いつしか広島の恋人と同一化されていく。冒頭、「君は何も見なかった」と語っていた男は、その思い出を聞く事で、「誰のものでもなかった頃の君を理解した」と語る。だが、彼女が広島を、本当の意味では見なかったのだとすれば、男もまた、彼女について、「全てを見た」と語るに等しい言葉を吐く事は、出来ないのではないのか。
「関心を抱いて見る事で、物事を学ぶ事が出来るわ」という女の言葉の正当性は、最初から最後まで宙ぶらりんのままであり、それはこの二人の仲がそうであるのと同じ事。アラン・レネ監督といえば『去年マリエンバートで』だが、重層的で非決定の状態に置かれた男女の姿を描くという点では、この作品も同系列にある。ただ、日本人の男の、フランス語で語るのはともかく、台詞までもが、いかにもフランス映画的である事の違和感は、日本人の目から見て、この映画そのものへの違和感を覚えさせるもの。その事も含めて考えるに、後にこの映画のリメイク(?)である『H story』で、主演女優のベアトリス・ダルが「台詞が美しすぎる」「テキストが怖い」と語るのも、尤もな事である。また、この映画の構造自体はけっこう単純であって、正直、退屈な映画。『H story』は、この退屈さに更に輪をかけたような退屈さが、感情が真っ白に無化するような所にまで達しているという、かなり不思議な映画になっている。
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