[コメント] ミュンヘン(2005/米)
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ミュンヘン五輪のテロ事件から始まるこの映画は、当初はスパイ映画の常道に則って進行する。イスラエルによる秘密作戦が極上の語り口によって語られる。映り込みを利用した鋭利な構図。欧州から中東に至る各都市の鮮やかな描写。…等など。しかし、次第に雲行きは怪しくなってくる。自分のあり方に疑問を抱くようになった主人公はボロボロになって仕事を離れ、NYで父親業に専念する。かつての上司が訪ねてきて任務へ復帰しろという。主人公はこれを拒否して、しかし彼を夕食に招待する。今度は上司がこれを拒否して、二人は訣別する。スパイ映画の主人公が戦いを拒否する―これはそういう映画なのである。
この映画は極上のスパイ映画になっていてもおかしくなかった。なのに、スピルバーグは自らそれを拒否してしまう。それは何故なのか?そこに、9.11以降の現実の在りように対する彼の考え方ははっきりと表れている。スパイ映画の前提とは敵と味方の二分法である。邪悪対正義、という単純な世界観である。勿論、それはフィクションとしての約束事であり、現実の世界はもっと複雑なものであるはずだった。しかし、9.11以降の世界はどうだろう。それは「邪悪」な敵を殲滅するには手段を選ばない世界である。現実を現実たらしめている複雑さを放棄して、フィクションと化してしまった世界である。現実とフィクションは奇妙に入れ違ってしまったのだ。
皮肉なことに、スピルバーグはもともとは現実離れしたファンタジーを描いてきた作家である。それだけに、B級災害映画のような9.11以降の現実は彼には耐え難いものだったのではないか。前作『宇宙戦争』でもそんな彼の居心地の悪さはそこここに描かれていたと思う。世界貿易センタービルの見下ろす川辺での訣別はスピルバーグの闘争宣言ともいえる。彼は壊れた(わざと壊した)フィクションをもって平板な戯画と化した現実を打ち破ろうと真剣に試みているのだ。それは勝ち目の薄い戦いかもしれない。しかし、彼はあくまでも「父であること」をまっとうするつもりなのだ。「父であること」と「戦うこと」は切り離せないのだ。
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