[コメント] 東京の女(1933/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
この映画の多くは屋内の場面で占められている。その屋内での撮影がまた見事なのだが、それはとりあえず措く。ここで注目したいのは、ほとんどが屋内の場面によって構成されたこの作品に漂う閉塞感である。この閉塞感は「〈外〉の不在」、より厳密には「〈内〉と〈外〉の断絶」と云い換えることができる。
江川宇礼雄が大学に行っている場面は描かれず、アパートという名の〈内〉にいるばかり。そのアパートの「壁」にも今までの小津作品なら〈外〉との繋がりを示す「ハリウッド映画のポスター」が飾られているはずなのだが、ここでの「壁」はただ〈内〉と〈外〉を隔てるという「壁」本来の機能をのっぺりと無機質な仕方で果たしているに過ぎない。アパートの〈外〉ではあっても、やはり〈内〉なる空間に過ぎない映画館で上映されている映画は「ドアー」を羅列する。しかし先ほどの「壁」とは逆に本来〈内〉と〈外〉を繋げる役割を果たすはずのその「ドアー」は、まさに羅列されるだけで一向に〈外〉とは繋がらない。
ようやく〈外〉が現れたと思ったら、それは江川の姉の岡田嘉子が体を売っていることを画として明示するようなシーンであり、次に現れる〈外〉は江川がアパートを飛び出して自殺へと向かう路上である。
ラストシーンも〈外〉であるが、これは私たち観客には残酷にも見える新聞記者たちの談笑と無人ショットによって構成されている。本作以降無人ショットは小津のトレードマークとなり非常にしばしば用いられるようになるのだが、本作ほど空虚な、あるいは終末感を漂わせる無人ショットは稀である。
そう考えると、「〈内〉と〈外〉の断絶」それ自体が不幸なのではなく、〈外〉からの不幸、もしくは〈外〉という不幸の侵入を必死で防ごうとした結果が「〈内〉と〈外〉の断絶」であったことが分かってくる。江川は、結局は彼にとって〈外〉たらざるをえない田中絹代から姉の秘密を聞かされ、姉の〈外〉からの電話でそれを確信する。そして自ら〈外=不幸〉へと旅立っていく。
しかし、そもそもこの作品の大部分が屋内場面で占められているといっても、もちろんそれは早撮りをしなければならないという制作現場レヴェルでの要請が大きかったからだ。だが、その条件を逆手にとってもっぱら以上のような〈内〉と〈外〉との関係に基づいた作劇と演出を展開してみせた小津の巧みさは、認められてしかるべきだろう。
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