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[コメント] 明日の記憶(2005/日)

堤幸彦監督の新たな一面を見た。自分も主人公と近い歳になって、同じような思いを重ねている。切実な臨場感ある映画だった。
chokobo

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







話の本筋はほかのコメンテーターが十分分析されているし、ドラマとしての面白さは十分堪能できたので、ここでは違う視点でコメントする。

まず、この映画の至るところに(拡大解釈)だが、過去の著名な映画作家の手法が取り入れられている。(と思われる)

まず、記憶を失う主人公が迷う幻想の世界は、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』を彷彿とさせる。同じ顔の人間が連続して現れたり、妻を疑って殴ってしまうシーン(実際には殴っていないが、妻の頭から一筋の血が流れ始める)は、『シャイニング』を思い起こす。

シャイニング』の前編に綴られている、心の奥底から沸きいずるような恐怖、これがこの主人公が世間から取り残された心情を見事に表している。

ラスト近くで、自然の中で陶芸に打ち込むシーンは(大袈裟かもしれないが)アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』をイメージさせる。目に見えない敵、(それは自分自身であるのだが)その恐怖に少しずつ近づいてゆく恐怖。この恐怖こそ『ストーカー』の恐怖だ。

堤幸彦監督が、過去に演出したシニカルな演出はここでは全く控えられており、彼のイメージは全くない。しかしながら、恐怖表現は彼らしさが随所に現れており、さすがと思わせるシーンが多かった。

つまり、(毎回書くことだが)テレビドラマの演出であれば、このストーリーであれば十分で足りるものであろう。しかし、それを映画(映画館)で表現するに足りる映画として作られていることを評価したい。素晴らしい映画だった。

ラストで妻の記憶を失うシーンは(これも大袈裟かもしれないが)柳町光男監督の『火まつり』である。その中で主人公が苦悩して苦悩して、妻との馴れ初めを失わないように作り上げた湯のみこそが、この映画の唯一の救いとなっている。これは『火まつり』で表現された昇華する自分に値するもので、全ての記憶をすっかり失った主人公の平静で自然な表情が苦悩を浮き彫りにする。

妻の身になると救いのない映画であるが、残された湯のみだけがこの映画の最後の救いとなっているのだ。

(評価:★4)

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