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[コメント] ゲド戦記(2006/日)

意外に期待感を煽る冒頭シーン以降、画面に躍動が訪れることはない。登場人物が皆、囁き声で話しているかのような、薄暗い雰囲気。これをジブリ絵で遂行する新味は感じたが、世界観は狭く、深度も浅い。背景美術は目の保養。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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このまま顔面が楳図かずお化しやしないかと思えるような皺を口角に寄せるアレン。内向的で臆病なくせに、キレると凶暴化する辺りは誰しも碇シンジくんを想起せざるを得ないだろう。アレンが水辺で自分の分身と対面させられるシーンなど、お前は綾波さんかと言いたくなる。まぁそれはいいんだけど、物語が進むにつれてどんどん舞台が矮小化していく御近所バトル化には萎える。

父の存在に捕われているが故にその殺害を試みたが、結局は魔女に魂を操られるままに父の殺害という行為を反復(父の胸元を剣で突いたときと同じ姿勢でハイタカを刺殺しようとする)し、剣をかわしたハイタカ=父の代理表象に許しを与えられる、という陳腐かつ都合のよすぎる解決であっけなく改心。アレンが父殺しについてテルーに語った台詞も要は「ついカッとなってやった。今は反省している」といったインスタントなものでしかない。この、原作には無かったという父殺しは観客に、監督自身の、偉大な父の存在に対する複雑な思いを重ねて見させてしまうが、このアイデアを出したのはどうもプロデューサー鈴木敏夫らしい。

とはいえ、宮崎吾朗の「たぶんアレンは父を敬愛していたのだが、自分の抱える閉塞感の矛先が、彼にとっての社会そのものである父に向かった」という解釈は私的な自分語りにしか聞こえない。そのアレンの心境が作品内で描かれておらず、単に生まれつき根暗な奴にしか見えないので、父殺しという激しい行動が根拠薄弱なのだ。鈴木は、当初の、アレンが父に殺されかけ、それが旅立つ理由となる、という粗筋に対し、「現在は子が父を殺す方がリアルだ」とか言ったらしいが、むしろ子に殺されるだけの存在感を持ちえない父の方が多い、というのが今のリアルのようにも思える。

ジブリらしいコメディー・リリーフとして登場する手下たちも、ご大層な魔女の手先な割にはバカっぽいチンピラの域を出ておらず、ウサギの頻繁な高笑い等、人物造形がわざとらしい。最もジブリらしい存在が最も異物感を放っている、という辺りにこの作品の立ち位置がよく表れているとは言えるのかも。

所謂「作者の伝えたいこと」というやつを台詞で長々と語らせるのにはやはり違和感がある。同じくアニメの長台詞でも、例えば押井守やその弟子筋神山健治の作品では、登場人物らの具体的な行為としての「語る」姿が描かれているから違和感は覚えないのだが、本作の場合、「伝えたいこと」を具体的な行為を通じて描く演出力の欠如がそのまま直截な語りに繋がっている印象で、制作者側の「メッセージ」が画面から半ば遊離して見えてしまう。これが、もとより全てが言葉で描かれている小説であれば、台詞も地の文と地続きであるから問題は少なかっただろうが、映像作品の場合は、言葉は、目に見え耳に聞こえる「語り」という行為として観客の前に現れるのだから、言葉をいかに映像に配分しまた溶け合わせるかという点には、更なる繊細な配慮があって然るべきだ。

原作未読なので具体的な批評はできないし、原作者から違和感が表明されているという事態を捉えて映画を一方的に断罪するつもりもないが、物語の基本的な筋は宮崎駿による『シュナの旅』だとか、父殺しは原作に無かった等々の裏事情を知ってしまうと、これは『千と千尋の神隠し』の赤色画面のDVD販売以来の詐欺行為では、という印象は強まる。看板だけ借りて全くの紛い物を拵えてしまったのだとしたら、作者が作品世界に傾けた思いを踏み躙る行為と言わざるを得ないし、例の“テルーの歌”の歌詞が剽窃だったという出来事も相俟って、父の遺産も含めた借り物尽くしの体制で、俯き加減の陰鬱な姿勢で厭々作った作品という、絵に描いたような碇シンジくん状態が目に浮かぶ。自分はこんなものに乗って闘いたくないのだと。

(評価:★2)

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