[コメント] 狂熱の季節(1960/日)
ドライバーが車を経て5万円に化けるような計数感覚が日常の秩序に埋没する即自的性格を扱うと、川地民夫は牛乳、新聞、玉子の生活感の体系に現象する。
日常の孔にはめ込まれた多動性の往復運動が郷えい治と長門裕之の筋を転がしていく。この物体感覚の両端にあるのがエアコンのない世界の叙景と川地のアヒル口である。
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