[コメント] トランスアメリカ(2005/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ブリーの母親の、潔癖さと過干渉。それが端的に表れているのは、トビーが訪ねてきた時の態度の変化。第一印象では、何だか汚らしい若者だと蔑むような態度であったのに、彼が自分の孫だと分かると豹変し、ハンサムだと言って猫かわいがりをし始める。またこの母は、ブリーに対しても、女に変わったことに最もショックを受けており、比較的冷静な父親や、ちょっと面白がっているような妹とは異質な印象がある。「父さんとユダヤ教会なんかに行かずに私と教会に通っていればこんなことには…」などと、家庭内民族・宗教対立を持ち上げたりと、アメリカの保守性や、悪意が無いのが却ってたちの悪い排他性などを体現したような人物造形が為されている。
この母の過干渉とは、人間関係に於いて距離が保てないことの表れであり、その潔癖さ、差別性は、人との間に絶対の距離を置こうとする姿勢の表れだ。この映画は、そんな距離感の不適切さを、表立って揶揄したり非難するというよりは、少し滑稽な光景として示すことで、やんわりと批評しているように思える。それもまた、この監督の、品のいい距離感というものだろう。
ブリーは母とは全く対立しているように見えてその実、トビーとの旅の途中にセラピストに電話をして「虫のいる地面に寝たのよ」と言って泣く。このもっと後の場面では、ブリーの母はトビーに「そんな虫のいる地面に寝てちゃいけないわ」と言って家に招く。こうしたさり気ないところに、親子というものの如何ともし難い影響関係というものを描き込むところが丁寧でよい。
ところでトビーは、旅の中でトランスジェンダーの集まりに参加して、特に差別的な態度も示さなかったし、彼自身がゲイでもあるようなので、ブリーが実は女装した男性であることが分かった時、なぜ怒っていたのか。恐らくは、性的な距離があると思っていた相手が実は同性だったことに怒っていたのではないか。もちろん、彼が吐く「嘘つきだ」という台詞には、信頼関係が築けたと思っていた相手との間に隔たりがあったことへの憤りが表明されているようには見えるのだが、ブリーに性的な関係を求めた時に「私は父親よ」と告白された時の怒りはやはり、トビー自身が埋めようとしていたブリーとの距離が一方的に否定されたことへの怒りがあったのではないか、と、僕にはそう思えてならない。トビーは実の父と暮らすことを夢見ていたので、本来なら喜んでもいい場面である筈だから。
そのトビーだが、彼が途中で拾ったヒッチハイカーに車と金を盗まれることで、ブリーは実家に帰らざるを得なくなる。つまり、トビーが赤の他人を簡単に信用した結果、ブリーは、距離を置いていた家族の許へ戻ることになってしまうわけだ。ブリーがこのヒッピー風のヒッチハイカーを拾いたがらなかったところにも、母と同様の潔癖さが表れている。
この映画、誰と誰がどのような点で距離を埋め、どのような点で距離を置こうとしているのかを観察しているだけでも、色々なことを考えさせられる。ブリーと先住民族の男との出逢いと別れなど、中年の淡くも真剣な恋模様として印象的ではあるが、ブリーは自分が肉体的に男であることは黙っており、そのことにトビーは何か不満げな表情を見せている。ブリーは「先住民族は性の境界を行き来する人間を尊敬していた。白人がそれを抑圧した」と言っていたのだが、それにも関らず告白できなかったのか、それとも、どうせもうすぐ肉体そのものを女性化するのであるし、先住民族なら言っても言わなくても関係ない筈、と考えて黙っていたのか。そこは観客に想像させたいところなのかもしれない。ブリーがトビーの身柄を引き取りに来る時に名乗った「父と子の教会」とかいう嘘の組織名にも、アメリカの保守思想に対する皮肉が感じられる。
最後、プリーはトビーと再会するが、息子にショックを与えた罪悪感からか、遠慮がちな態度でいる。だが、遂にトビーに向かって「その汚らしいテニスシューズを、私の新しいテーブルから下ろしなさい」と叱りつける。素直に足を下ろすトビー。この、人として礼儀を保つということ。様々な差異が混交し複雑化した今のアメリカにとって、たぶん、この差異の尊重こそが、全てに先立って求められる倫理なのだ。
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