[コメント] 夜のピクニック(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
移動撮影は、出発前に校庭に集まった生徒たちが、青臭く乳臭い恋を咲かせつつ気合を入れ合う光景を映した場面で大規模に行われたのみであり、後は、思ったほどこのシチュエーションが活かされていないように感じられた。
思いきった移動撮影を行なうには、物語の構造が群像劇としての面を強く持っている必要があるのだろうが、この映画は、貴子(多部未華子)と融(石田卓也)の関係が中心で、それ以外の広がりがあまりないので、出発前に、彼らが置かれた状況、雰囲気を伝える為の、ワン・シーンの群像劇で使用するにとどめたのかも知れない。
劇中で忍(郭智博)がふと呟く、「こうやって時間が目に見えることって、滅多にないよな」という台詞は、この映画の主題、更にはその主題に沿ってどのように撮られるべきなのか、を端的に語っている。「過去に歩いた道は後ろに見えて、これから歩いていく道は、目の前に見える」。
それに加えて、忍が気にしている、友人の融が貴子と距離を置きながらも視線が彼女の方に向かいがち、という、物語の軸でもある所に表れているように、彼らが歩く道が時間を表わしているのと並行して、その道の上にいる彼ら同士の物理的な距離は、心理的な距離が可視化されたものでもある。
そうしたわけで、忍や、貴子の女友達らが、融と貴子をくっ付けようとして大きなお世話を焼くのも、観ていて鬱陶しくはあるものの、この二人の間にある、物理的な距離と、視線の交わし合いという、微妙な心理が全て衆目に見える形で表れてしまう状況が作り出すドラマの一部だと言うことが出来る。
アメリカに行ってしまって、最後の歩行祭に参加できなかった杏奈(加藤ローサ)の代わりのようにして一行の傍をウロチョロする彼女の弟・順弥(池松壮亮)の、これでもかというほどのベビー・フェイスっぷりにはちょっと退いてしまうのだが、彼が、図らずも貴子と融の異母兄妹という関係を暴いてしまうシーンは、構図が面白い。完全に歩みが止まったまま硬直してしまう、貴子と融と彼らの友人たち。その背後から歩いて来る他の生徒たちの、遠くにおぼろげに見えていた姿が徐々に近づいて来る緊張感。ショットがそのままドラマを成している。
その意味で不満なのは、遂に貴子と融が並んで歩いて会話を交わす場面の撮り方。なぜここで二人を正面から撮って、後ろの道や、そこを歩く少年少女らをショットに取り込まないのか。これを延々と横から撮り続けていたのは、彼らが二人だけの会話を交わしている親密さと同時に、彼らが歩きながら目にする光景をショットに取り込む演出効果はあるものの、それ以外の、この会話に至るまでの友人たちとの人間関係や、時間の積み重ねを、視覚的に観客に全く見せずに済ますのは、あまり的確な判断とは思えない。
とは言え、最後に校庭に戻って来た少女らが、ゲートの下で「せぇの、ゴール!」とジャンプした直後、カメラがアングルを上げて、ゲートの「START」の文字を入れるという、的確なショットもある。確か美和子(西原亜希)の台詞だったけど、「このまま卒業まで話をしなくても、西脇くん(融)と血がつながっていることに変わりはないんだから」という言葉があった。つまり、この最後の歩行祭が終わっても、時間はまだまだ未来に続いていくのであり、ゴールは単なる通過点、新たな出発点にすぎないのだ。「GOAL」は「START」の裏返し。
それにしても、僕にはやはりこの映画は、苦手なままに終わってしまった。全篇に散りばめられた幼い恋模様や寒いギャグには、観ていて恥ずかしい、というのならまだしも、観ていてストレスを覚えさせられた。というのもこの監督、青春している若者たちを大人の距離感で見守るというよりは、彼らと同じ精神年齢のままに一緒に歩んでいる、といった雰囲気なのだ。
その幼さは、被写体との距離のとり方や、ショットの持つ意味合いについて、充分に練り込まれていないような生硬さにも表れている。この絶好のシチュエーションにも関らず、時間や、物理的距離、人物間の心の距離を、ショットで的確に伝えることに充分に成功しているとは思えない。
少女らの疲労感もあまりリアルに伝わって来ず、徐々に疲労が蓄積していく感じも出ていない。単に脚本に書いてある通りに疲れを口にしているだけといった雰囲気で、長い道を歩いているという切実さが感じとり難いのは、かなり致命的。なんだかインスタントに疲れてみせている感じがする。
梨香(貫地谷しほり)が冗談で喋っていたゴジラの足跡のようなものが、偶然に視界に入る場面も、何だかあまりにもゴジラゴジラした造形で、わざとらしい。こういった個所はどうしても文章よりも映像の方が説明的になりがちなのだけど、こういった細かい匙加減が下手だと感じる場面が色々あって、観ていて気持ちが萎える。
それと、信じ難いのは、ベトナム戦争の記録映像と思しき映像を、平然とギャグに使うという無神経さ。ロック野郎の光一郎(柄本佑)が『プラトーン』の有名なシーンを真似たり、『地獄の黙示録』で使われていた“ワルキューレの騎行”が流れたりと、明らかにベトナム戦争を連想させる演出で、まぁさすがに人が死ぬ映像が使われているわけではないが、これはあまりに配慮が無いというか、映像に関する感受性とか倫理観に問題があるように思う。
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