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[コメント] クリムト(2006/オーストリア=仏=独=英)

絵を描く場面の少なさと、全編、全裸の女性が散りばめられているにも関わらず不足がちなエロス。「画家クリムト」の印象の希薄さが残念。脚本は、混線しているようでいて結構、構造的かも。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







鏡に自分と愛する女性の姿を映すクリムトが、実は鏡の裏側から他人にその姿を見られているという状況は、理想の美を追う己の内面を他者に晒し続ける、芸術家の立場の暗喩と言える。彼の贋物が街を歩くように、スキャンダルな画家としてのクリムトの虚像もまた、彼自身の意思に関わりなく、一人歩きする。映画や写真は、現実を映しながらも、現実との齟齬と分裂をなす分身を生む機械であり、それはクリムトが生きた時代の一つの象徴でもあったのかも知れない。

ファム・ファタールたるレアが、マジックミラーの後ろで密かに入れ替わり、本物なのかどうか分からなくなるように、時代の求める美もまた、芸術家の知らない舞台裏で密かに交替してしまう。時代錯誤な衣裳を着けた青年が弾くピアノを傍らに、古典と前衛の空虚な永劫回帰が語られる場面は、重ねられた鏡の像のように、無限に続きながらも結局は堂々巡りの閉塞感に置かれた、芸術の歴史の戯画のよう。

最後に、娘と思しき少女に手を引かれるクリムト。愛人と、「本物のレア」に挟まれたクリムトの姿には、理想の女性を求めて女性遍歴を重ねた漁色家としての彼と、芸術家として美を求め続けた彼が、二重写しに見える。「街中、君の子供だらけだ」とからかわれる彼も、この「子供」を「作品」に置き換えれば、放縦な私生活と、画家としての偉大さが表裏一体に思える。だから最後には、クリムトと、彼が「成長してから姿を見る」と言っていた娘の姿がガラスに映し出される。「成長してから姿を見る」と言って結局はその姿を見られなかったクリムトとは正に、自らの作品が充分に発展したという境地に達しようとして果たせなかった、永遠の求道者だ。

名を明かさぬままクリムトに付きまとう謎の書記官は、まるでカフカの小説に出てくる法の門番のよう。この映画全体も、絶対的なものを求めての堂々巡りという、どこかカフカ的な迷宮感が漂う。理想の美女を追う所はゲーテのファウスト風。何かもう一つ物足りないというか、まだまだ生ぬるいような不満感は残るものの、そう悪くもない作品。かの夏目房之介さんもお好きだそう。

髪型から手の形まで真似たシーレのそっくり振りや、カフェで喧嘩を始めるウィトゲンシュタインに、ニヤッと出来る人向けの作品かも。特にシーレは、『バスキア』でデビッド・ボウイが演じたウォーホルのそっくり振りを思わせ、ちょっと笑える。

(評価:★3)

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