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[コメント] ラ・ジュテ(1962/仏)

動画と静止画。映画の生と死。

再見。初見時は、あの押井守が「(それを見たことは)啓示的な経験だった」と語っていたからこそ見たのだが、今回は、『ゼラチンシルバーLOVE』という最近の邦画を観ていて、なんとなく思い出してしまったので見たのだった。その邦画の監督さんは写真家の先生だということは聞いていて、それで思い出したのかも知れない(ちなみにその邦画については、ちょっとしたアクシデントで時間途中で観られなくなってしまい、そのままになっている)。

それにしても、この映画を観ることは、いったい何を見ていることになるのか。実際に見てみるに、それは完全に組み写真的に構成されているわけでもなく、どこぞで聞くところによれば、通常の撮影をしたフィルムのストップモーションで構成されていたのだそうで、なるほど随所にオーバーラップはあるし、一部には(今風に言うところの)動画処理を施した箇所も見受けられる。つまり写真作品ではない。だがそうなると逆に疑問になるのは、何故普通の完全な映像作品にしなかったのかということで、それを考えると、恐らくは結局、その物語を表現するのにこの方が効果的だったから、ということになるのだろう。つまり、この物語を参照するに、主題のひとつには人間にとっての時間のあり方の問題があるわけで、その時間のあり方、追憶的な時間のあり方の表現には、ストップモーションを多用したこの様な構成が効果的と判断されたということなのだろう。だが、思うにそれは、物語としてのリアリティ(必然性)ではあっても、映画としてのリアリズム(必然性)ではない。「リアリティ」とは、言わば観客の恣意的感受性の方便であり、それは現実そのものを表現する形式としての「リアリズム」でも、また現実そのものとしての「リアル」でもないと思うのだ。そしてここで言う「現実」とは空白のメディアとしての映画が立脚する世界のことであり、それはそのまま映画の内容ともなる。

勿論、映画は物語の媒体でもある。だからこの映画が物語を効果的に物語る際の方法として、この様な方法を用いるのは何も悪いことではない。しかし、映画は物語の媒体に過ぎぬものでもない。つまり言い換えれば、映画は物語を物語るに際しても決して自明のメディアではない。映画は本来的には空白の(それ自体は透明の)メディアであるが故に、常に自己自身を模索しなければならないメディアでもあると思うのだ。然るにこの映画は、その様な模索に当たる創作であるように見えて、そのじつ既存の映画の制度(形式)に中途半端に依拠したところの作品でしかない。たとえばこの映画の中で一瞬だけ動画処理の施される場面があり、それは確かに物語としてはかなり効果的な場面ではあるのだけれども、しかしそれは、通常の映画で一瞬だけストップモーションで(今風に言うところの)静止画処理する在り来たりな演出法の大掛かりな反転でしかなく、既存の映画の制度(形式)の中でその方法を選択しただけのことなのでしかない。それは随所にあるオーバーラップや、あるいはひとつひとつの画面構成にも言えることで、そこに露呈しているのは、完全な組み写真的モンタージュでも、映画的な運動を前提にしたモンタージュでもない、本当に中途半端などっちつかずを露呈する構成でしかない。

昨今、とくにPC等の情報ツールの発達によるものであろうが、「動画」と「静止画」という言い方が日本語では為されるようになってきた。他の言語ではどの様に表現されているのか厳密には知らないが、少なくとも日本語に於けるこの言い方は、如何にも情報時代の映像のあり方を暗に表現しているように見えて興味深いと思える。というのも、そこでは相互が(たとえば「写真」と「映画」などと言うよりは)相関的であると同時に癒着的で、それらがもとは一塊の情報(データ)でしかないというリアリティを如何にもそれらしく体現しているように思えるからだ。そこではたとえばフィルムの映画に於ける連続(動)と非連続(静)の緊張関係が感じられず、むしろ相互が中途半端に侵食し合っているようなニュアンスを感じる。その違いは、今この様に曖昧な言い方でしか表現出来ないように、どこまで絶対的な違いなのかが正直自分の中でも判然とはしないが、しかしたとえば一コマ一コマというマテリアルな単位に還元出来るフィルムの映画とは違って、現在は一般化したCGアニメーション等に見られる運動の非連続的な"感じ"と同質の現象であるようにも思える。

そこで、この映画のことだ。この映画ももとはと言えば勿論フィルムの作品で、その意味では連続と非連続の緊張関係を生きている作品ではあった筈なのだが、しかしそこにここまでストップモーションが常態化された形で多用されると、それが中途半端に今日の静止画的なリアリティに接近することになり、却って今日的な映像のあり方を巡る現況へも接近することになっているのではないかと感じる。そしてそれは、少なくとも自分には、映画の生(過去)よりは映画の死(未来)により近しい現象の露呈なのではないかと感じる。その昔、ある有名な旧作映画を初めてDVDで観た時に、そのラストに近いある場面でストップモーションになったのだが、それがDVDだと完全な静止画として再現されるので(画面の粒子が全て死んだように停止する)得も言われずゾッとしたという経験があった。その経験に何か絶対性があるのかどうかは判らないが、しかし映画が死ぬとはこういうことなのではないかとは思ったものだった。再見したこの映画は、DVDではなくテレビ放送で観たのだが、見ていてそれ程のことを感じることはなかったものの、しかし静(一コマ)の中に無限の動を見出せるような映画だったというわけでもなかった。その中途半端ぶりが、あるいは、この映画の今日的な(しかしあまり映画的には肯定的とは言えない)可能性でもあったのかも知れないとは思う。

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