[コメント] 弓(2005/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
恋愛というものは利己的なもので、ましてや若い娘ともなると、その気はさらに強まるものだ。では、この映画の老人はどうだろうか?面白いことに、この老人の恋愛に対する姿勢は、どうも一緒に暮らしている娘とあまり変わらないようである。娘が自分を愛さなくなったときに露呈する彼のエゴイズムは、私たちが一般的に老人を想定する場合に考えるそれとは、その自己中心的な要素の度合いにおいてはるかに異なっている。このような極端な設定はキム・ギドクらしく、また“恋というものはすべて自己愛のもとに成り立っている”という恋愛観が感じられて面白い。そしてだからこそ、娘と老人の関係に亀裂が入った時の二人の応報が、緊張感に満ちた切実さを帯びてくるのだろう。
さて、実を言うと、この映画を見ていて僕はとても不安であった。というのは、どうもこのままの展開では、2人のうち少なくともどちらかは不幸な結末を迎えることになりそうだからだ。娘が船を出て行った場合、老人はぬけがらも同然になってしまうだろうし、老人が娘と結婚した場合、娘はきっと世界を知らずに終わってしまうだろう。
この不安の念は、別にこの映画が意外性を有する良作になるかどうかの不安、つまり自分の鑑賞体験においてよい経験が結果的に積めるかどうかという不安などではない。僕はただ2人に幸せになって欲しかったのであり、彼らが不幸に陥ってしまわないかどうかが不安だったのである。つまり僕はこの2人に魅せられてしまっていたのだ。ハン・ヨルムの感じさせる純粋さは、そのセクシャルな要素をさらに引き立て惹きつけるし(正直いってエロい、しかも厭らしくないエロさ)、また老人の、娘を自分のものにしたいという気持ちはヒシヒシと伝わってくる。
このあたり、キム・ギドクが巧いのだろう。普通なら老人を変態扱いしてしまいそうなものだが、娘を守る描写や、カレンダーの描写をうまく取り入れることで、老人をただの変態で済ませることができないくらいの切実さを演出している。また、言葉少なな2人の交流からは、邪なものなど到底感じ取ることはできない。つまりは、2人とも純粋なのである。純粋なものが傷つくのを見るのは、辛く、そして心が痛むものだ。そして観客にそう思わせた時点で、キム・ギドクの勝ちだったのだろう。
ラスト近くで、2人が譲歩する姿勢を見せ始めたとき、僕はやっと安心した。これで2人が完全な不幸に陥ることはなくなった・・・と。娘は老人と結婚の儀式をすることを認め、そして老人は娘がその後に船を去ることを認めたのだ。だけど、そこからが普通じゃなかった。
老人の矢が股の付近に突き刺さることによって、歓喜の裡に悶える娘。開いた口が塞がらない。
さすがキム・ギドクといったところか。2人が譲歩すると言ったところで、その内容を考えてみれば、老人は娘と共に暮らすことを願い、娘は老人から離れることを願っているのだ。その取り引きが終わったところで、結果的には老人が惨めであることに変わりはない。完全に2人が対等な関係となるには、娘が老人に何らかの好意、それも老人が娘に感じているのと同じくらいの好意を示さなければならない。僕はこれに関しては、惨めな老人は見たくない、ということで期待してはいたものの、やはり自分でもどうやってそれを示すべきか見当がつかないことから半ば諦めてもいた。しかしキム・ギドクは果敢にもそれを試み、そしてやってのけたのである。この志には惚れ惚れする。ただ・・・その描写はやはり普通ではなく、キム・ギドクの身体感覚に対する強いこだわりを感じ取ることができる。
血を滲ませながら悶える娘の姿は、まさに性交におけるそれである。子どものような恋をしていた娘にその喜びを教えたという時点で、やはり老人が一枚上手であったか。娘が去るとともに沈んでいく船の姿を見ていて、涙がこぼれそうだった。老人は娘に全てを注ぎ込み、娘はそれを全身で受け止めたのだ。そしてそれは、2人が育んできた関係におけるどの瞬間よりも、素晴らしい一瞬だったに違いない。
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