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[コメント] 鉄コン筋クリート(2006/日)

「都市を跳ぶ(飛ぶ)」というモチーフの昇華は黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』における飛翔に遠く及ばないと思われ、「生の重力」に絡めて言うなら『空気人形』との比較においても負けてしまう。「跳ぶ」という能力を登場人物に付与するとき、「跳べなくなる」、もしくはその意思によって「跳ばなくなる」という画、その理由付けにドラマが生まれるのではと思うが、何というか、そういった一押しが足りないと思う。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作を知らないので、原作ファンには噴飯ものかもしれませんが・・・

例えば、同じく「跳ぶ」者としての「ヘビ」の手下(宇宙人?)が跳べる理由についても、つまりは彼らが似たもの同士であることは非常に重要な要素であると思うんだけど、このへんも深く描いて欲しい。「跳ぶ」という行為が力と自由の象徴である一方、必ずしも全てを美化しているわけでもないので、クロが「白」も「黒」も内包しつつ、超越者としてではなく、ヒトとして都市に還ったのであれば、やはり「跳ばなくなる」もしくは「跳べなくなる」という画を肯定的に描くことが必須ではなかろうか。私は、クロが跳んで帰ってきたことに違和感を感じた。それとも、「それでも、だからこそ跳ぶのだ」ということなのだろうか。

そもそもの都市観についても、どうしても押井と比べてしまう私には底が浅く思える。ガラクタを積み上げたようなケバケバしく表層的な宝町のデザインは、戦後日本の喪失を必死に埋めようとする焦りと空虚感の裏返しに見え、むしろここには「代用品」しかなく、「歴史が存在しない」ように見えるのだが、「ネズミ」が掲げるノスタルジーは明らかに「歴史(思い出)」、「古き良き混沌」に向けられたもので、デザインとその意味付けにおいても、私の感覚とズレていた。

また、「地獄」と形容される宝町の、 その「地獄」の有様の説明がまさに説明的で迫真力に欠け、「この程度の地獄なら、他の映画でも嫌になるほど観てきたのよね」とか意地悪なことを考えてしまう。さらに、アクションにその解説的な台詞を被せるのが興醒めで、双方の威力が相殺されている。活劇の併行もアクションの高揚を阻害している点が散見され、特に「ヘビ」の手下からの逃走シーンはもっとキリキリとした緊張感の演出が出来たはずであるように思われる。

白黒双方を内包しつつ都市に還るという着地点を見定めたのは逃げではなく真摯で非常に現代的な結論だと思う。確かに、世界を守るのは「シロ」なのだ。全てを見通す「じっちゃん」の瞳が、片目が盲目の「白」、片目が「黒」、というのもさりげないスパイスである。また、言うまでもなく蒼井優の超絶的力演には圧倒される。「たらいまぁ」という舌足らずな発音の威力はことのほか大きい。

しかし、忘れてはならないのが田中泯 の声である。これはやはり凄い声である。間違いない。

(評価:★3)

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