[コメント] 幸せのちから(2006/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まず感じたのは、今のような時代に、物語を丁寧に紡ぐという行為は大変難しいことなんだな、ということ。「なぜ子供にテレビを見せる!?」「歴史の教育さ!」「歴史?『××ボート』(←番組の名)がなんで歴史なんだ!」「歴史だとも!海軍の歴史じゃないか」「テレビだったら家でも見れる!高い金払って子供を預けてるんだから、テレビしか見せないようならあんたんとこにはもう預けん!」「海軍のテレビがいやならやめるがいいさ!支払いは遅れるくせによく文句言うよ。文句ばっかりだ」 ・・・役者はそれぞれ緻密な役作りをしてみえたが、現実に生きる人間が、こんな遣り取りを交わすものかしら?としか思えない。しかし、こうでもしなけりゃ物語は紡げないのだ。少なくとも、誰かの猿真似で済ますのではなく、独自のスタイルで紡いでいこうという姿勢は伝わってくる。
その上で、確かに身勝手なところもある主人公のキャラクターだが、基本的には、最悪の状況に陥ったときでも決して自分に対する言い訳はせずに、少しでも打開する可能性があれば、それに賭けようとした男だ、と見た。その結果、一流証券会社に就職が決まった、というよりは、自分の能力とやる気を評価してくれる仲間に出会えたのだ、と。自分への言い訳をしがちな私自身の人生と比べても、まずはこの主人公の成功を祝福してやりたくなった。
しかしながら、エンドロールを眺めながら率直に思ったのは、この男(主人公)はおそらくちょっとやそっとじゃ転落しない地位にまで昇り詰めた。だが世の中の多くの人間(映画を見に行く余裕のあるような人間、という意味だが)にとっては、常に自分の能力(の不足)に不安を抱きつつ、いつ何時この立ち位置を失って最底辺まで転落するかわからない危機感を(漠然と)感じているのが現実ではないか。だとすると、成功者である彼(主人公)の物語を聞いたところで、かえって自分たちとの間に壁を感じてしまって、世の分断を固定化する働きをしやしないか、ということだった。
それで、家へ帰って考えてみたのだが、だからといって彼ら(成功者たち)の物語に背を向けるということでは駄目なんじゃないか。彼らの一方的な自己弁護に耳を貸す必要はないにしても、同じ社会の仲間なのだから、彼らがいかなる思いを持って行動してきたかという物語は、共有する必要がある。つまり、むしろ壁を崩す試みの映画なのかな、と思い直した。
全然違うかもしれないけど。
80/100(07/04/15見)
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