[コメント] ホワイトハンター ブラックハート(1990/米)
象徴としての象、象徴としてのホテル支配人、象徴としてのギブ、象徴としての映画監督、いずれも存在しない番地に立てられた家のような空虚感が漂い、何のバイブレーションも広がらない。クリント・イーストウッドは題材の選択を決定的に誤ったのである。
象が撃てないという事態を描くのに、その象を立派に撮っている映画があるということはどういうことか。「俳優としての象」の存在を楽屋裏から表舞台にあからさまに引きずり出しているという鼻白む事態に他ならないではないか。
そもそも象すら撃てなかった男の罪を描くことがひとかどの映画作家の志とは思えない。撮るのならば、たとえばこの映画の中の人物なら5百頭の象を撃ち殺してきたオグリヴィーをこそ主人公とすべきであり、それこそ映画作家としての健全な大局観であろう。
小説でならば生きた話が映画では死ぬという好例のように本作は思われる
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。