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[コメント] パフューム ある人殺しの物語(2006/独=仏=スペイン)

聖書の「初めに言葉ありき」への反逆のように、言葉以前に在るものとしての、匂いという本能的な感覚への固執。殺された救い主イエスの陰画の如き、殺人者。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







愛されず、望まれずに生まれたジャン=バティストは、東方の三博士や天使やマリアに祝福されて生まれたイエスと対照的だが、生まれて間もなく殺されかけたという点では共通している。彼が去った後、彼に関わっていた人間は、まるで恩寵に見放されたかのように、死ぬか、虚脱感に陥らされている。立ち去れば空虚しか残さない、というのは、まさに香りと同じであり、彼の救済が、結局は虚しいものであることを示している。

言葉で表現するのを苦手とするジャン=バティストが、香りを自らの言葉とするのは、定義し、限定するものとしての言語からの自由をも意味している。香りという、大気に漂い、無限定に広がる言葉。分け隔てなく、地上の存在を受け容れるものとしての、ジャン=バティストの嗅覚。聖書では、‘息(プネウマ)’は、生命を意味する言葉だ。

嗅覚が、人の最も本能的な好悪の感情に影響することはよく知られているが、言葉=ロゴス=理性がキリストだとすれば、ジャン=バティストはサド侯爵のようなアンチ・キリストなのだろう。‘愛’の行為としての殺人、乱交、食人が、そのことをよく示している。ジャン=バティストは最後に民衆に、自らの血と肉を与えている。パンとブドウ酒ではなく、文字通りに。

キリストは、非肉体的な天上の愛の象徴として受肉したのだが、ジャン=バティストは、自らは体臭を持たない者として、地上のあらゆる匂いを嗅ぐ。ジャン=バティストは恐らく、本当は香りを求めていたのではなく、愛を求めていたのだ。彼が逆立ちしたキリストとして栄光の頂点に立った、処刑場でのあの場面で、自らが調合した香りで人々が誰かれなく愛し合うのを目の当たりにした彼は、そのことに気づいたのだ。だから最期に、自らが望まれずに生まれたあの場所で、人々から‘愛の行為’として血と肉を奪われる形で、地上から消えていった。十字架に架けられるのを免れたジャン=バティストは、一見すると勝利者のようだが、むしろ十字架に架けられたキリストとは逆に、肉体に勝利することが叶わなかったのではないか。

音楽家ブライアン・イーノは、言葉による分類を免れた感覚としての嗅覚に関心を寄せていたらしい。感覚に訴えて人の感情を支配する、という意味では、音楽は香りと似ているのかもしれない。この映画でも、音、そして色彩が、存在しない香りを何とか表現しようと、もどかしくも繊細に働いている。香りが、愛や芸術の理念の域に高められている。

(評価:★4)

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