コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 主人公は僕だった(2006/米)

腕時計さえもがキャラクターとして魅力的。愛のあるメタフィクション。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「これはハロルド・クリックと腕時計の物語」と最初に語られる通り、腕時計は、ハロルド(ウィル・フェレル)の几帳面さや数字に憑かれた性格、予め決められた運命のスケジュール、といったものを象徴している。ハロルドがアナ(マギー・ギレンホール)を見つめている或るショットで、彼女の姿がベーカリーの丸い窓の中に見えていた事や、最後にハロルドが病院のベッドに横たわっているショットでの、彼が円形の器具の中に居て、病室の窓の外には時計塔が見える、という構図など、メタフィクションとしての入れ子構造を、様々な形で視覚化しているのが面白い。

例えば、腕時計の視点から見た、街を行き交う人々の姿、という奇抜なショットや、ハロルドの口の中や、シャワーの中から撮られたショット、という「物の視点」を取り入れた演出も、そうした諸々のディテールに囲まれて暮らしている人間の在り様を感じさせてくれる。CGの使い方にも注目したい。ハロルドの磨く歯の本数や、歩道の白線の数などが、アイコンと線と数字で執拗に示される。画面の中のディテールを数値化して見せる、という、通常のCGとは逆の使い方だと言える。そう見れば、脚本のみならず視覚的にもメタフィクションなのだ。

ヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)の研究テーマである「小説に於ける三人称の語り手の絶対性」、神としての作家の駒となっている、主人公のハロルドだが、その彼自身の、税金を徴収する会計検査官という職業もまた、他人を数字で支配するという意味で、或る程度、超越的な立場でもある。その彼が、腕時計の時間の誤差によって思わぬ事故に巻き込まれる、というのが、この脚本のミソという訳だ。だが、この結末は、ヒルバート教授が言うような「文学史に残る傑作」というほどのものとは思えず、むしろこの結末の否定の仕方こそが、物語として面白い。その意味では、作家カレン・アイフル(エマ・トンプソン)の自己犠牲という面は弱いし、ハロルドの自己犠牲も、感動的というにはあまりにお約束的ではある。

とは言え、神の視点、三人称の語り手として、常に他人の死を空想し、取材と称して病院にまで押し掛けるカレンが、タイプライターを打つ自らの手で誰かを殺す事に初めて躊躇いを覚える事、最終的には、文学的な完成度よりも、日常のありふれた些細な幸福に意味を見つけて、「神」の座から降りる姿は胸を打つ。むしろこの瞬間、全知全能の神でなくなった彼女からは、神のような慈愛が感じられるのだ。このラストは好きだ。

また、ハロルドの命を救った腕時計の破片が彼の体の内なる一部になる、という結末も、時計=運命=死が、彼を取り囲み待ち受ける超越性から、彼自身の意志として内部化するという、メタフィジックなレベルの変化の巧い暗喩になっている。ハロルド、カレン、そして腕時計、三人(と、敢えて言おう)それぞれが自己犠牲的なのだ。

短髪のボサボサ頭で神経質に歩き回るカレンの、煙草を吸ったり、何か言ったりする時の、誰かに追われているかのような、怯えるような震え。彼女の秘書の、のっぺりした無表情で居座る様子。アナの、利発さと人の良さと強引な理屈の入り混じった言動(と、あの刺青)。彼女に残り物のパンを分けてもらっているホームレスが、ふと口にする素数の話。皆、一々キャラが魅力的なのが何とも嬉しい。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。