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[コメント] クィーン(2006/英=仏=伊)

世の潮流に左右されない伝統の継承者としての威厳を保とうとする女王と、選挙によって首相となったブレアの、民意の動きに敏感な姿勢とのギャップと協同の妙。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この、国民の思いを気にして忠告したがるブレアと女王の意識の違いが明確に表われるのが、女王の散歩中やお茶の時間にかかってくる電話だろう。女王が余裕や寛ぎを保とうとするところへ、急ぎの様子でかかってくる電話。だがこの二人、マスコミによって国民との関係が左右されるという点では、よく似た立場でもある。ブレアは、ダイアナの死を悼む態度によって、新聞で賞賛されるのだが、ブレア自身は、女王が自分の側ではなく、伝統という厚いカーテンの向こう側に引っ込んでいることを憂える。

刻一刻と事態が推移する慌しさの中に挿まれる沈黙の場面が光る。牧師の他は誰もいない部屋で、ダイアナの遺体と対面するチャールズの姿を、ガラス越しに、扉が閉じられたことによる無音によって見せるカット。女王が、単独で川を車で越えようとして立ち往生し、助けが来るまで待っているシーン。他者から隔絶され、孤独に沈黙のうちにいる時、ようやく彼ら王族も、一個人としての自らの感情(=涙)と直面するのだ。

女王は、この沈黙の中で遭遇した鹿の美しさに魅せられるが、後に鹿が狩りで仕留められたと聞いて、その亡骸と対面する。これは、息子チャールズが元妻の亡骸と対面していたシーンと重ねられているのだろうか。「苦しまなかったのであればいいのだけど」。この女王の呟きは、敵視さえしていた様子のダイアナに向けられたものなのか、それとも、彼女がダイアナよりも鹿のほうを哀れんでいることの表れなのか。そこが曖昧で両義的なところが、この映画の保つ中庸という美徳だろう。

ダイアナも、パパラッチに追いかけ回された末に死を与えられてしまうという意味で、マスコミに「獲物」としてハンティングされた存在だとも言える。実際、その死の直前、バイクに乗ったパパラッチに追われるシーンもある。反面、狩猟に出かけようとしていたのは女王の夫、しかも、母ダイアナを亡くした哀しみを癒すために孫たちを連れ出そうとしていたのだ。尤も、鹿を仕留めたのは彼らではなくどこかのビジネスマンらしい。これは、親族が鹿=ダイアナを殺すという残酷な構図になるのを避けた配慮と言うべきか、或いは逃げだと言うべきか。チャールズが、誰かから撃たれるのではないかと心配する(バイクのエンジン音に脅えたりもする)のも、カメラのshooting(撮影/発砲)の対象であるが故だろう。

英国王のスピーチ』でも見られたように、やはり王族は、慎重に用意されたスピーチ原稿を、いかに自分の言葉として国民に届けるかが問われる立場らしい。遂に女王が、テレビを通じて、国民に対して正面から向かい合うシーンは、彼女と国民との和解のシーンではあるのだが、そこでもやはり、女王の視線が向かう本当の対象であるだろう、スピーチの文章が表示されたディスプレイを捉えたカットが挿まれる。女王が本当に国民と向き合ったのか、それとも、ダイアナの死に対する冷淡さに怒った国民が、王室の存続を望まない声を高めたことへの対処でしかないのかは、やはり明確にはならない。

葬儀のシーンでは、ダイアナの弟が姉についてのスピーチの中で、「彼女には生まれ持っての、階級を越えた気品があった。彼女の魅了にとっては、称号など不要だった」と言ったとき、ブレアが女王の表情を気にして視線を送るカットがあり、女王の表情もまた、憮然とした、という表現も可能な雰囲気がある。そして、このシーンの最後は、ダイアナが女王を見返すように眼差しを向けるカットで閉じられる。女王が、ヘレン・ミレンの「演技」であることと、ダイアナが、死によって不在でありながらも、映像としては、実際の記録映像であるということ。演じられる権威としての王室と、一種のポップスターであったダイアナとの対立が、この映画のスタイルそのものによって反復されている、と読みとるのは、深読みが過ぎるだろうか。

女王の、ダイアナの死と、それを悼む国民に対する態度や、女王自身の描き方の両面に於いて中庸を保つスタンスが、この映画そのものの品格とも言えるだろう。

日本の皇室をモデルにこうした映画が制作されることは殆ど不可能だろうと思えるが、ヨーロッパの王族はかつて、確かに世継ぎを生んだことを証しするために、出産を公開しさえもしていたという。王権神授説という考えもあったにせよ、世俗世界の支配者としての立場というものが歴史的にも彼らの在り方を決定づけてきたのだろう。その公開性は国民と王族の距離を近づける面もあるだろうが、その距離感こそが、ダイアナがマスコミに追われて非業の死を迎えた原因でもあるだろう。逆に、日本の皇室に関わるタブーや閉鎖性が、雅子妃の長患いをもたらしもしているのかもしれない。単純に比較しても詮無いことだが、色々と考えさせられるものはある。

(評価:★3)

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