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[コメント] あしたの私のつくり方(2007/日)

おじさんの考える、きれいなケータイ小説、といったところか。その目線の下げ方が演出にも表れているが、悪い意味でCF的な安全圏に入ってしまった感。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







尺の割には冗長な印象。個々のショットは、現代日本を映してこんなに美しく撮れるんだな、と感心させられるが、画面の分割によってズタズタにされてしまうのが悲惨。まあ、それぞれ自分の場所を占めるもの同士のコミュニケーション、というケータイ的世界観の演出という意図があったのかな、と思いはするんですが。テレビ電話での会話シーンは背景が真っ暗で遺影のように見えてしまうけど、孤独な状況の中に取り残されたような二人が通じ合う、ということを表現したかったんでしょうか。何か生硬にさえ見える画面作りもきっと、若い子たちに見てもらう為に目線を下げた演出を心がけたせいなんだろう、と良い方に解釈したいが、この乳臭い雰囲気がやはりちょっとなんだかな、と。シーンの合間合間に入る、街や空などを捉えたショットは好きなんだけどな。

成海は、ケータイでつながる孤独な二人を描いた点が『きみにしか聞こえない』と似ているが、今回は自然体の演技で好印象。どの出演者も、演技力云々よりもそのかもし出す空気感の自然さが好印象を与える。石原良純を除いては。

最後にエンドロールと共に流れる映像は、電話会社の名が出てくるとまるでCM映像のように見えてしまうほど、全く安全で小奇麗な印象。安全、というのはなにも、不快感や衝撃性を与えないというような意味ではなく、映像の中にいわく言い難い質感が含まれていたり、人間のナマな感情が沁み込んでいる、といった、単に心地よく見ているだけではいられない何らかのものが含まれているかどうかということだ。カッコつけて言えば、映画としての詩的なるもの。広告的分かりやすさに飼いならされない、映像の多義性や無償性。

それと、この手の映画を観ていて最近気になるのは、ヒロインの少女を取り巻く同級生たちは大抵、軽薄な会話にうつつを抜かすだけの、殆ど動物的な存在であり、ノイズを孕んで主人公を取り囲む背景、情況としてしか描かれていない。なんだか純粋な女子高生と不純な女子高生という二元論がおじさんお兄さん監督たちの脳裏を支配しているように見え、それはそれで心情的には分かるんだけど、映画はそうした紋切り型を打破する力を持ってナンボのものじゃないかな、とも思うわけですよ。

(評価:★2)

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