[コメント] ウール100%(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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少女は、老姉妹の屋敷で惰性的に鳴り続ける時計の音に逆らい、鳩時計を蹴っ飛ばす。一方、ゴミ屋敷という、時間の蓄積そのものの中に閉じこもる老姉妹は、無限の再開(「また、編み直しじゃー」)を告げる少女の号令に耳をふさぐ。この二つの時間は、対立から始まって、和解し、融解し、そして再び分離していく。
この映画は、姉妹の生きてきた時間の回復、ないしは袋小路という主題を、あの手この手の映像で延々と見せているだけで、主題そのものに発展性が無い分、単調さは否めない。だが、無駄な台詞を排して、描きたい事は何よりもまず映像で見せる事に徹底している点で、映画であろうとする意志の力強さを感じさせる。
老姉妹が道をササッと横切るその動きの素早さが、彼女らの、町の風景への定着感を持たない幽霊性を醸し出す。二人を車で轢いたかと心配する男に助手席の女が言う「よく出るのよ」という台詞、そして、冒頭で屋敷の下で歌を歌っていた園児たちも、老姉妹と直に接触してはいない事から、老姉妹が実在しているのか何なのか、観客は混乱させられる。停止した時間の中に閉じこもる老姉妹たち自身にとっても、自分たちが生きているのかどうか、判然としないのかも知れない。
少女は、編んだセーターの腹に起き上がり小法師を「妊娠」してみたり、そもそも赤い毛糸を編むという行為自体、老姉妹の母が、結局は生まれてこなかった赤ん坊の為にしていた行為である事など、老姉妹の母としての位置を占め、ここで立場の逆転、時間の転倒が行なわれている。ドールハウスの二つの人形の目線から、眼前のセーターを捉えたショットは、この逆転、転倒を、被写体の大きさの印象という形で実現している。少女の、アリス的な巨大化。
このように、小道具の使い方が巧み。何気ない風景に毛糸が伸びているだけで、風景の印象がガラッと変わる。また、毛糸を編む音のザワザワという繰り返しと、編まれたセーターの表面の襞、陰影の、内臓的な生々しさ。
少女は「アミナオシ」として老姉妹の拾い物帳に登録される事を拒絶しようと、アニメーションの中でもがく。最後に老姉妹と同じオカッパ頭にされた後も、拾い物帳を一枚一枚燃やしていく。だがそれによって、老姉妹は停止した時間から開放され、赤い糸を辿って彼方へ旅立つ。いつの間にか若返る二人。という事は、赤い糸の先で二人を待つのは、やはりあの屋敷なのだろうか。やっぱり袋小路?
それにしても、こんな映画が最後の出演作となった岸田今日子。老女と童女が混在したような彼女自身の在りように相応しい映画で人生を締めくくってしまったという、その事実の「完成度」にも驚かされる。
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