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[コメント] レミーのおいしいレストラン(2007/米)

ネズミと人間という関係を表面に出した邦題では、この映画を理解できないだろう。
chokobo

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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ピクサーの映画はかねてから高く評価している。素晴らしい作品の数々だ。それもディズニーと組むことで、子供向け、というターゲットを獲得した上、ジョン・ラセターがアップルで展開するデザイン性とコンピューターを駆使した新しい映像表現、そして良く見ると、大人に対する痛烈な皮肉も交えるなど、ひとつひとつの作品が丁寧に作られていると思う。

思えば子供向けに『トイ・ストーリー』のビデオを購入したのは、我が家の子供が生まれて間もなくだった。そのビデオをすり切れるほど見直したことを思えば、いかにこの企画が家族向けか、ということを物語る。従って、ピクサーの映画は常に家族的だ。常に家族で鑑賞することを想定している。

さて本作だが、登場人物はネズミである。田舎に住む料理の才能に目覚めたネズミが都会に出て、うだつの上がらない青年とともに、評判の落ちたレストランを立て直すというもの。フランスが舞台だが、どちらかといえばアメリカンサクセスストーリーだ。

この映画のポイントは、実は料理評論家のイーゴである。彼がレストランの評価をする頑なな姿勢の変化が、この映画を信頼できるものにしていると思える。そして彼はこの映画とは全く別の広い意味で辛辣な批判を見る者にメッセージとして伝えようとしている。それは彼がレミーの店で食べた原題の「ラタトゥーレ」(食べたことがないのでわからないが)について感動したことを、新聞の批評で語るシーンだ。

このシーンは子供たちにはやや苦痛で理屈っぽいシーンだが、ほとんどこの映画の訴えたい全てを語っているといって良いだろう。それは、創造する側とそれを批評する側との確執だ。何も料理に限られたことではない、文学であれ音楽であれ映画だってそうだ。そうした物を作る側と、安易に批判(批評)する側との無益な格差を痛烈に批判していると考えられる。

イーゴはこの長いナレーションシーンで批判することそものについて自己批判をしている。このサイトについてもそうだし、あらゆる物について批判をするのは簡単だ。しかし、その原点となる思想についてまで正確に語られる機会は少ない。どんなものでも良し悪しは常につきまとうものではあるが、作り手の内実に踏み込んで、正確にその作品を批評する評論家が少なくなっているのではないか?これがこの映画のメッセージであると思う。

もちろんこの映画はそんな堅苦しい内容の映画ではないし、単純に子供が喜ぶ映画だろう。しかし、ネズミと人間とそれに関わる周辺の者達の行き違い(すれ違い)を根底で結びつけるのが、このレストランの元のシェフであるグストーの「誰にでも料理は・・・」というメッセージであることが裏付けとなっている。

ただ、大変残念なのは、原題でテーマとしようとした狙いが、邦題に変えられたことで、この映画の言わんとしてるメッセージが半減したことだ。「ラタトゥーレ」という食べ物が日本で馴染みがないのでやむを得ないが、最初からネズミであるレミーが主役であることがわかってしまっては、この映画のサプライズがない。

返す返すもイーゴがレミーの作った「ラタトゥーレ」を食べて、自身の幼い頃を蘇らせるシーンは圧巻だ。そしてレミーも田舎でこの味を習得したことを、グストーが結びつける重要なシーンだ。このシーンの構成は見事だった。

(評価:★4)

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