[コメント] 小間使(1946/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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1938年6月のロンドンと指定される。教授のシャルル・ボワイエは学生たちに、ヒトラーに追われるチェコの教授だと匿われる。これは、学生たちの早とちりではないか、という含みがあり、これは最後まで解消されない。話自体も、ナチ批判に及ぶのかと思っていたらまるでそうならない。教授は学生に批評は休業中だと語り、最後は推理小説で稼ぐ。ボワイエは結局ただのロリコンでしたという収束。この横滑りのコメディ、もうナチ批判なんていいじゃないか、戦争は終わったんだ、というニュアンスは感じられるが。
映画は宿泊する上流家庭をほとんど批評しない代わりに、娘が交際する薬局の青年とその周辺を批評し始める。貴族よりも商人の攻撃に積極的なのはコメディとして意外なところがある。なんか全体に噛み合わず、不調という印象がある。リスとナッツとかいう教訓話は退屈だし。
しかし終盤にはもう忘れさせられているが、序盤は上流階級への皮肉もあったものだった。「父は労働党支持だが工事は保守的だった」と配管をナットで叩き続ける孤児の娘は、上流家庭の居間でいかにもといった手つきで菓子を喰らう。そしてメイドだと発覚して彼女は執事に引き渡され、娘が話しかけると執事が目を逸らす。なんて場違いな奴と批難するように。ここが本作の私的ベストショット。こういう身振りをする人はいるものだ。教授がディナージャケットがないと訴えるとその貴族は、スラム街で一度だけ正装せずに食事したことがあると応える。さてどう展開するかと思いきや、その後は娘が初メイドで銀器を落とすぐらいのドタバタがあるだけだった。
中産階級の薬局はずいぶん揶揄われる。この青年リチャード・ヘイドンのぎこちない造形は奇怪なものだし、始終咳していて咳で誕生祝のケーキの蝋燭吹き消す母親ウナ・オコナーについては笑っていいものやらいけないものやら悩まされる類の造形だった。娘が青年の部屋の壁にかかった羊を見て「食べられちゃうのね」と変な感想を云うと、青年は「私が羊ならお国のためと喜ぶ」と返答する。この返答はどういうニュアンスなのだろう。
それから母の誕生パーティのさなかの、娘の配管修理(音だけで修理過程を示すのが面白い)を見て、母も客も帰り、青年はそんな君な見たくなかったと批難する。このニュアンスも判りづらい。中産階級の下層階級遺棄と上昇志向が揶揄われており(しかもユーモアなしに)それがイギリス階級社会らしいということなのだろう。この薬局青年の造形は興味深く、もうひとつ得心のゆく処までつきつめてほしかったが、一方的非難に終わった。イギリス演劇特有の階級間での皮肉の飛ばし合いに参画してしまったようなものだった。
ジェニファー・ジョーンズは数年前の『聖少女』がハマり役過ぎて、あのイメージを引きずっていただろう。同じように無垢なこのコメディエンヌはイマイチ収まりが良くない。ラス前の自転車の曲乗りはスピード感あるいいショット、あの二人乗りした相手は誰だっただろう。その直前、何で教授は娘を探さず挨拶もせずに立去るのか判らなかった。終盤よく判らない結婚話の相手方になるクリームヘレン・ウォーカーは千石規子さんそっくり。最初のパーティではマティーニをポットに入れているが、当時のロンドンではああしてカクテルを飲んだのだろうか。
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