[コメント] 二十歳の原点(1973/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
あの日記にしたためられていたのは、今風に言ってしまえば、自意識のツンデレだったのだと思う。自分で自分に対してツンデレを繰り返す自意識の相克こそが、あの日記の示し得た魅力であり、同時に悲劇でもあったのだと思う。この場合の「ツン」とは、社会の事象を観念的イデオローグのもとに自分のものとしようとする、フロイト的に言えば超自我の部分であり、また「デレ」とは、素直に自分の心根を吐露している、温和で柔和な女性的自我の部分であるのだと思う。そのツンとデレが、自意識の中で相反しながら一緒くたになって、それが文字通り自由自在のリズムとテンポをもつ言葉の魔力に乗せられて語られることで、あの日記の独特の魅力が醸成されていたのだと思う。少なくとも、自分にとってはそうだ。それが同時に悲劇でもあったのは、そんな自意識のツンデレの劇が、次第に「ツン」の方向へと傾いて、「デレ」の方向が潰えていく様をまざまざと見せつけられたからだった。最後の最後にしたためられている穏やかな詩は、そんな自意識のツンデレの劇からの降板を意味しているように思えた。社会的、時代的、つまりは外的なリアリティが如何ほどのものだったのかは自分の想像の及ぶ範囲ではないが、その日記にしたためられた内的なリアリティからは、自分はそのようなことを感じた。
で、この映画。あの日記が、あの言葉のリズムとテンポなくして成立し得ないものであることが如実にわかってしまう、じつに平凡に、俗悪かつ愚劣な作品のように思えてしまった。そこには日記の文体から感じられた、書き手である高野悦子の脈拍、呼吸、体温の如きものはすっぽりぬけ落ち、あのひ弱な自我が強きを強いる時代の中で、自分で自分を懸命に可愛がる切なさなども微塵も感じられず、只管徒に、出来事の表面をなぞっているだけにしか思えなかった。ナレーションで語られる日記の文面も、この棒読みでは何の感興も呼び覚まさない。しかしかと言って、ではそれをどう表現すればよかったのかも、難しい問題ではある。あの棒読みでなければ、ではどんな表現がありえたのか。やはり言葉は言葉なのだと思わざるを得ない。言葉に刻みつけられた脈拍、呼吸、体温は蔑ろにしたものではないのだ。
ラストは最悪だ。あの死の際の驚愕のカットの挿入はなんのつもりなのか。どんな解釈があったにせよ、容易に窺い知れない故人の自殺の理由を、勝手に描き出してよいものだろうか。それは故人への冒涜ではないのだろうか。故人を偶像化するつもりはないが、あの日記を読めば、そんな描き出されかたには、自然そういう感情が生じても仕方ないと思う。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。