コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ストリングス 愛と絆の旅路(2004/デンマーク=スウェーデン=ノルウェー=英)

糸は、人形たちの運命、感情、意思、生命、といった、本来は目に見えないものを、剥き出しにされた神経のように可視化する。糸繰り人形である事を世界観そのものに組み入れる事で、却って生々しさや艶めかしさ、残酷さを際立たせる演出が見事。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







飽く迄も糸繰り人形の劇を観ているつもりでいたが、囚われたジーナの裸体が現れた時、その痛々しいような艶めかしさに、少し、衝撃のようなものを受けた。それが人形である事は充分意識させられてはいるが、と同時にいつしかそれらを、切れば血が出るような生々しさを持った人格として見ていた事に気づかされる。

人形が人形である事を常に視覚化している糸にしても、冒頭からカーロが自らの糸を切って自害する場面を見せ、糸が人形たちにとって「生命線」である事を観客にまず最初に教えているのが的確。更に、この場面では夥しい雨が降り、人形たちを濡らしていて、彼らの頭上を遮るものは置けない世界である事、つまり人形たちは頭上から降るもの(雨・糸)に対して無防備であらざるを得ない事を感じさせる。

ゼリス族の族長アグラの死の場面では、切れた糸が頭上から無情に落ちかかり、アイケの出産シーンでは、頭上から降ろされた細い糸が、彼女の子の体に結びつけられる。終盤の戦争シーンでは、燃え上がる糸と、地上から沸き起こる阿鼻叫喚という間接的な形で、殺戮の悲惨が描かれる。生と死そのものとしての糸の象徴性を演出する、幾重もの創意工夫。こうした糸の象徴性が力強いものであるからこそ、雲の下へと垂れさがる無数の糸や、城の前に群がる民衆の糸が帷のように被さるショットが、数多くの無名の人々の存在を感じさせ、この作品の政治劇としての面をも詩的に表現し得ていたのだ。

その一方、個々の人形たちの私的な関係性も、糸で見事に描かれる。幼い兄弟が悪戯で絡み合わせた糸を、これはどちらの何の糸、と見分けて解くアイケの行為には、それぞれの子に対する、母親としての細やかな愛情が感じられる。ハルとジータが結ばれる場面では、絡み合っていく二人の糸を見せる事で、性的な絡み合いを間接的に描くと同時に、二人の糸が見分けのつかぬ一体のものに見えていく事で、運命の絡み合いと一体化の暗喩ともなっている。

ジータと、彼女の教えを受けたハルは、遥か天の上にあって目には見えない「糸の終わり」、自分のアイデンティティーの終わりであると同時に他者との繋がりの始点でもある、糸の根源を意識する事で、宙を舞う力を得る。これがあるからこそ、ラストシーンで、ジーナの遺体の傍にいた飛べない鳥が、どこかから聞こえるジーナの声に励まされ、糸を外して飛び立つ光景は、「真の自由」を得る事の代償としての、地上で他者と織り成していた関係の切断をも感じさせ、哀しくも美しい。

最後の最後、日本版の声優陣のコメント文が現れるのには、やはり違和感を覚える。これについては、日本語版の監督である庵野秀明が、映像の虚構性について意識的な作家である事を考えるべきだろう。彼は或るインタビューで、演劇について、生身の役者が「ここは宇宙だ」と台詞を発すればそこが宇宙になるという、観客との共同幻想を成立させる、非常に濃密な関係性に惹かれると言っていた。過去の作品でも、『新世紀エヴァンゲリオン』では、映画館でスクリーンを見つめる観客の姿そのものを直視させるようなカットを入れ、実写作品『式日』では、日常的な光景に演劇的な異装のヒロインを置いて異化効果を演出したり、映像の約束事、虚構性への自己言及が見えた。本作への関心の理由も、キャラクターが糸繰り人形である事を殊更に強調した世界観、通常は無視されている要素を敢えて前面に出すスタイルにあった筈。だからこそ、人形の声を演じた役者が、作品世界とは別個に、現実に存在する事を殊更意識させる為に、最後のコメント文を挿入したように思える。だからと言って、それが大して面白いとも思えないのだが。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)モノリス砥石

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。