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[コメント] シルク(2007/カナダ=仏=伊=英=日)

右(東)へ、左(西)へと往復するショットが描く旅。極東(=世界の果て)の記憶としての蚕の卵。エレーヌの想いの暗喩としてのユリの花。物理的な距離と心的距離の繊細な絡み合い。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







フランスから日本への旅路は、左から右へと進むショットで描かれ、帰路はその逆方向となる。この事で、日本の女に会いに行く為に旅立つエルヴェ(マイケル・ピット)と、一人窓辺に佇むエレーヌ(キーラ・ナイトレイ)の擦れ違いをショットの構図で表現する事が可能になる。この時のエレーヌは、画面の左側で、左に向いている。つまり、エルヴェと背を向け合う形になっているのだ。一方、短い回想乃至はイメージとして挿入される、日本の女(芦名星)の眼差しをクローズアップで捉えたショットは、エルヴェを迎え入れるような構図で、左を向いている。

エレーヌとエルヴェが二人で居るショットで、あからさまに齟齬や亀裂が描かれる事はない。だからこそ、二人が個別に映されたショットの繋ぎ方に表れた擦れ違いは、互いに向き合っている時にはそれとして顕在化していない、深層に於いて進行している関係性の表現たり得ている訳だ。

エレーヌが終盤に至るまで脇に追いやられた存在であるのは、演出上、意図的にそうされていた筈。劇中のユリの花は、エレーヌの思いの暗喩として見る事が出来る。最初の内、ユリの花は、エレーヌとエルヴェの会話で言及されるのみで、フレーム内に捉えられていない。そして、地面に咲き乱れているらしいユリは、エルヴェに踏まれていたりする。また、彼の想いがエレーヌから離れてしまった時、ユリは茶色く枯れた姿を見せるのだ。

エルヴェが日本とフランスを往復する旅路は三度描かれるが、回を重ねるごとに、その描写は短縮される。これは単に説話的な経済性を図ってというだけではなく、エルヴェが日本に対して抱く心的な距離が埋められていくのと並行している筈だ。それと反比例して、彼のエレーヌとの心的距離は離れていくように思える。

だが、エルヴェの想いの強さはどこか、物理的な距離への憧憬に基づいていたのではないか。日本との通商条約が公式に締結され、物理的な距離が大幅に埋められると共に、日本の女からエルヴェの許に届けられた手紙には、彼への想いと、別れを告げる言葉が綴られている。つまり二重に距離は埋められたのだ。

ここでエルヴェのロマンスは完結したかに思われるのだが、今度はエレーヌが不治の病に侵される。物理的な距離という意味では、異国という距離よりも、死によって隔てられる絶対的な距離の方が、遥かに遠い。彼女の死、そして、日本の女から届いたと思われた手紙が、エレーヌによるものだったという事実の判明。それはまた、エルヴェの傍に居て平穏な結婚生活を送っていたかに見えたエレーヌが、彼との間に距離を感じ、それを必死で埋めようとしていたという、隠されていた真実の報せでもある。

日本の女とのロマンスの終焉は、エルヴェが持ち帰った蚕の卵が駄目になってしまうという出来事でも、暗喩的に表されている。帰りが一箇月遅れたせいで、季節は夏になっており、卵から幼虫が孵化し、死んでいるのだ。ここで、養蚕業で潤っていた町に経済的な危機が訪れるのだが、それを回避する策として、エルヴェは妻の為に庭園を造る作業に人々を雇う事を考える。これは、日本の記憶=蚕の卵が、町、つまりエルヴェの生活環境を支配していた状態が終わり、妻=ユリの花が、それと交替するという事でもある。

エレーヌが夫の事を託していった、庭師の少年と、エルヴェが並んでベンチに座るショットでは、二人は画面の正面を向いている。つまり、同じ方向を見ているのだ。左右の方向へのずれが繰り返されてきたこの映画の、最後になっての、このショット。そして、温泉の湯気の中から幻のように浮かび上がった日本の女の姿が、泉の中のエレーヌの姿へと転換される。エルヴェとエレーヌの、物理的には実現しなかった、しかし彼女の死という絶対的な距離を越えて表現された、切り返しショット。

もはや、何かを求めて旅立つ必要はない。庭師の少年とエルヴェを捉えた俯瞰ショットは、勿論左右に動いたりせず、そのまま後退していき、庭師の少年は、エレーヌの庭園の小道を、左の方へ歩いて消えていく。日本という遠い異国からエルヴェに愛を告げていたと思われた手紙の文面が、エレーヌによる彼岸からの声とも思えるナレーションで朗読される。それはまた、マダム・ブランシュ(中谷美紀)の前で「日本語に訳してほしい」と頼んで読み上げた時の声であり、過去という距離の向こうから聞こえる声でもある。そして、満開に咲き誇る、ユリ。

最初にエルヴェが日本に旅立とうとした時、エレーヌは容易くそれを勧めていたように思えた。だが彼女はその時、「愚かな戦争に行くよりいいわ」と言って彼を送り出していたのだった。それは、旅にも死の危険が伴わない訳ではないにせよ、戦争よりは生還する望みが大きいからではなかったか。エルヴェが異国で恋をし、幾らかは妻を裏切りさえしていたのも、実はエレーヌが、彼と死によって隔てられるのを避けようとした想いの結果ではなかったか。

やはりこの物語は、その不在の時にあってさえも、エレーヌの愛の物語だったのだろう。マダム・ブランシュは、エレーヌは日本の女になりたがっていたと言う。自身の愛する男の欲望の対象である他者を、殆どエルヴェ本人以上に欲望する、という逆説性に対しては、倒錯的と見る考えもあるだろうが、これも一つの献身であるのだろう。だからこそ、自らの密かな裏切りすらも受け入れようとした妻を、エルヴェは再び、また真の意味で愛するようになった筈なのだ。

控えめで、終盤に至るまで殆ど影に徹していながらも、最後には全てを包み込んでいくエレーヌ。それを演じきったキーラ・ナイトレイの演技力、という以上に、その美貌や存在感。また中谷美紀も、娼館のマダムとしてふてぶてしさを見せながらも、エレーヌの手紙について話す時の、零れそうな感情を、苦労によって厚くしてきた面の皮の下に押し隠すような様子など、良い演技を見せてくれていたと思う。

この映画は、このように、決して台詞が多くはない人物の方が、妙に心に残る作品であり、その事自体、この作品の持つ本質を仄めかしているように思う。つまり、目立たない人物もまた、それぞれの想いを秘め隠しており、それは、ちょっとした表情や仕種から垣間見えるものだという事。この奥ゆかしさという点でも、古い日本の情景が象徴的に現れる事は、作品の空気に馴染んでいたと言える。

(評価:★4)

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