[コメント] ぜんぶ、フィデルのせい(2006/伊=仏)
ジュリー・ガヴラス監督の家族と少女時代への郷愁という「感情」要素と、おそらくは思春期以降に芽生えた政治的世界観に対する「信条」要素が整理されぬまま混在しているように見える。そこが面白さだと言えなくもないが、やはりなんだか座りが悪い。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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「純白のレースに象徴された花嫁に対する憧れ」、「欠かさぬブラッシングや食事前の弟との入浴」、「リレーであることを忘れるくらい没頭する水泳」、「父親とのくすぐり遊びや手を握る感触から得る安堵感」。勝手に想像すのだが、これは家族と少女時代への純粋な憧憬に端をなす描写なのではないだろうか。言いかえればジュリー・ガヴラスの『ミツバチのささやき』だ。
一方、これと映画的に対極に位置する逸話も散りばめられる。たとえば、「キューバ出身の家政婦の共産主義に対する毒舌」、「当選祝賀会で連帯の意味を体で感じる従妹との追いかけっこ」、「教師との山羊をめぐる対立」、「父の故郷訪問やアジェンデ失脚時に父の手を握る行為」、「新しい学校で誘われるまま自然に友達の輪に加わる少女」。これらは、あきらかに目的と意思をもって演出された描写だと感じる。ジュリー・ガヴラスの『Z』宣言なのかもしれない。
とても面白かったが、どちらでもあり、どちらにも成りきれない未消化(あるいは未昇華)な印象がもどかしかった。
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