コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2007/日)

歴史のお勉強が延々と続く序盤には、呆れて途中で観るのを止めようかと思えてくるが、本格的にドラマ部に突入すると今度は一転、言葉と肉体の暴力の渦。この、執拗な言説化からナマな暴力へと急変する構成は、連合赤軍の在り様そのものにも見える。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







概念というよりは、徹底的な均一化を求める衝動から発した言葉としての、「総括」、「共産主義化」。未だ「敵」を眼前にするに至らない状況下での、閉鎖的な集団による「軍事訓練」は、攻撃の矛先を求めて内部に敵を見出す。内部に、各員の精神の内部に。森が、「別の人格に生まれ変わる為」と称して失神するまで殴らせるのも、意識を失わせる、という形で、他者の精神を直接操作したいという欲望の表れだ。精神と肉体の倒錯性。

森や永田の、メンバー各員の内面への暴力的な問いかけが、いつ行なわれるか予測不能な状況下で、「誰か言う事は無いのか」という声に、進んで自らの身を投げ出してしまう者たち。沈黙していれば、いざ矛先が自分に向けられた時に、より執拗に責められるに違いない。だが、誠実さを装って我が身を犠牲に投げ出してみせれば、予想外の過酷な問責。「共産主義化」とは、この暴力の渦の生贄となる事以外の意味を持たなくなる。

そして、遂に現実に「敵」と対峙する事になる、山荘での籠城戦。飽く迄も連合赤軍メンバーの視点に終始する演出の果てに、彼らの防御を打ち破ってくる放水と、それに反射する照明。巨大な光に向かって銃を乱射する若者たちの姿からは、彼らが「敵」として求めていたものには、遂に実体と呼べるものは無かったのではないかと思えてくる。彼らの「敵」である警官たちの死は、新聞記事や、発砲するメンバーたちを捉えたショットの外に置かれている。

兄と共に「軍事訓練」に参加した少年は、一人、陰惨な「総括」の嵐の外に置かれているが、カメラは、眼前で繰り広げられる暴力に耐え続ける彼の表情を捉え続ける。その彼が山荘で遂に、「俺たちは、勇気が無かったんだよ!」と何度も叫ぶ。この「勇気」についてだが、実際に関係者たちと親交のあった監督は、坂東國男から、「勇気を奮って、森に粛清の中止を進言してくれていたら、兄は死なずに済んだ、と呟かれた時ほど落ち込んだ事は無い」という話を聞いていたようだ(朝日新聞 2008/07/12)。

だが、逮捕され、収監された森が自殺する場面での彼の遺書には、この「勇気」の一文字があった。この勇気をもって、彼は自らを「総括」するのだ。メンバー内部の粛清を止めるには勇気が必要だったのかも知れないが、他ならぬその「勇気」によって開始された武装闘争。

結局、暴力革命を志向した若者たちの思想には、彼らの内輪の論理の外に広がりを持ち得ていたのか、という、こちらが最も答えを聞きたい疑問に、この映画もまた、掠りもしていない。監督の言う「勇気」は、死以外の何ものかを指し示し得ているのか。『突入せよ! 「あさま山荘」事件』が権力者の視点から撮られていた事に憤慨して撮ったのがこの作品だという事だが、逆方向からの一方的視点に終始した観がある。

最後の年表の末尾に表れた、檜森孝雄の焼身自殺。パレスチナへの侵攻に抗議して、という一節に、現在進行形の問題への接続を感じさせられるが、また同時に、その表現がやはり「死」でしかあり得ないのか、という違和感もまた覚える。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。