[コメント] ミスト(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画の難点としてまず思いつくのは、霧から現れる怪物たちのB級ホラー風の造形が鮮明に可視化されすぎているせいで、折角の霧の曖昧模糊とした不気味さが損なわれている事。謎の巨大な触手、という断片的な形で早くも可視化された敵は、その全貌は見えないものの、映画を早々に、よくあるモンスター物の範疇に回収してしまう。
監督が願っていた通りのモノクロであれば、この怪物たちの姿も霧も何もかもが、単色の陰影に統一されるので、霧と怪物の脅威が、視覚的・演出的に、より一体化しただろう。その意味では、最初から致命的な失敗を犯した映画だ。
それに、やたらに煽られている「衝撃のラスト15分」という宣伝文句や、結末に関する「絶望」と「衝撃」「皮肉」などという前評判が脳裏の片隅にでも在れば、遅くとも、車が燃料切れを起こして主人公が銃を手にした時点で、最後の最後に何が起こるのかは、考えまいとしても薄々勘づいてしまう。
この結末から遡って思い返すと、ショッピングモールから脱出しようとする際、主人公のデヴィッドが車のボンネットに乗っている拳銃を拾おうとし、彼の息子や同行者たちが、早く出発しろと必死で急かしていた事に気づく。デヴィッド自身にとっては、生きる為に敢えてとったのであろう行動が、彼以外の全員の死をもたらすのだ。
燃料の尽きた車内で、老人たち二人が交わす、「やるだけの事はやった」「それは誰にも否定できない」という会話。だがあの悲惨な結末は、ただ待つという、何もしない事が出来なかったが為に訪れた悲劇でもある。
ところで、ネットで拾った情報によると、原作と異なるのはこの結末のみならず、女教祖・カモーディの末路にも変更が加えられているとの事。思えば、恐怖と絶望に駆られて子供の命を奪う事を考えつく、という点では、カモーディとデヴィッドは、或る意味で同等ではないのか。カモーディが撃たれた事に一抹のカタルシスを覚えた事は否定しないが、その同じ拳銃で車中の四人が死んだ事を考えないわけにはいかない。
カモーディは、独りで「皆を御救い下さい」と神に祈る反面、他人から同情されたり、同等に扱われると逆上する性格。特別な存在としての自意識が強く、劣等感と優越感の塊なのだ。彼女が「復讐の神」と呼ぶユダヤの神は、彼女自身のルサンチマン(怨恨感情)の投影でしかない。そんな彼女の説く神ですら、不条理な状況を合理化し納得させてくれるものとして縋りつく群集。特殊な存在であるように見えるカモーディも実は、その辺に居る平凡な人間たちの内に潜む一面にピタリと一致しているわけだ。
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