[コメント] 告発のとき(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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顔といえばやはりトミー・リー・ジョーンズは白眉で、顔の見えぬロングショットの悲痛も、言わば彼の表情の、表象不可能な極限として位置づけられることで、より強度を増している。
マイク(ジョナサン・タッカー)が戦友たちから「自分のを使え」と言われても頑なに使い続けたという父ハンク(トミー・リー・ジョーンズ)の古びたバッグ。そのマイクから送られてきた星条旗をハンクが逆さに揚げるのがラストシーンなのだが、その旗もまた、戦場で使い古され、色もくすんでいる。戦場から帰って来るということは、単に喜ばしい生還というばかりではなく、戦場で心身ともに「使い古される」ことでもあるのだろう。もはや彼は元の彼ではない。
マイクと同じ隊に所属していたメキシコ系の青年に、マイク殺害の容疑がかかった際、激昂したハンクは、元軍警察官としての冷静な判断によって彼を取り押さえはしたものの、「メキシコ人め」などと差別的な言葉を吐いて青年を殴りつける。ハンクもまた、戦う者が孕む狂気から無縁ではないのだ。ダビデの物語についてエミリー(シャーリーズ・セロン)から、本当の話ではないと言われた際には、「コーランにも載っている」と、何かイスラームに悪感情は無いのだとでもいうような台詞を口にしてはいたのだが。
結局、このメキシコ系の容疑者は犯人ではなく、ハンクは後に彼と酒を酌み交わすことになるのだが、その場面でこの青年は、軍の車両を運転していたマイクが「何かを轢いた」出来事を語る。そのとき、マイクを庇うように彼が口にするのが、「マイクは子どもを轢いたと言っていたが、轢いたのは犬だ」。だが、その「犬」を風呂場で溺死させた(しかも「子ども」の眼前で)帰還兵は、遂には妻をも同じように溺死させるのだ。
マイクを殺害したボナー(ジェイク・マクラフリン)の自供シーンでは、語られる真実もさることながら、彼の無表情さと、その前に無言で座るハンクとエミリーの表情とのギャップそれ自体もまた凄まじい。エミリーが、憤り、哀しみ、ショックといった、耐え難い感情が溢れ出た表情をしているのに対し、ハンクは、その真相の呆気なさも含めて悲惨な息子の最期に加えて、自らも戦場の狂気を知る一人の男としての苦渋をも滲み出させた、何とも言い難い形に顔を歪ませている。
ボナーの、「遺体を埋めるべきだったが、腹が減ったのでチキンを食べに行った」という言葉。そのことで、切り刻まれて焼かれたマイクの遺体は動物に食い散らかされてしまったのだが、観客が既に目にしているその遺体(の欠片)は、まさにチキン。ボナーはまた、マイクの遺体を切断した兵士は、肉屋に勤めていたので手際がよかったとも言う。チキン店という日常と、戦場の狂気・非人間化の同居。チキンといえば、エミリーの勤める警察署に、鶏の目を抉った青年が連れて来られていた場面もあった。他の警官たちは鶏の鳴き真似などをして笑っていたが、動物を平然と傷つける行為の延長線上に、殺人をして、遺体をチキン同然にする行為もあるのだ。
また、遺体の扱いという点では、エミリーが、自分が軽く扱ってしまった女性が最後に無残な遺体となったのを目にした時、浴槽に沈められたそのままの姿で置かれた彼女の手を取って涙する場面は、たとえ遺体となろうとも、人は物として扱われるべきではないというエミリーの姿勢が感じられる。エミリーはまた、職場での性差別と闘う女性としても描かれていた。そんな彼女だからこそ、同じ女性の手を取る行為にも、より深い情感が生まれる。差別もまた、人を人以下として扱うということ。エミリーは、この映画の良心だろう。
その意味では、エンドロールに現れる、路上に放置された子どもの遺体は、良心の手が差し伸べられるのを待っているのだ。殆ど物のように晒されているその遺体は、だがまだ、自らが人間性を失った代償のように肉片と化したマイクの遺体のようには、完全に物に還元されてはいない。
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