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[コメント] 崖の上のポニョ(2008/日)

アニメーションの大胆不敵な線画が、歪みの機会として要請したかのような水。物語の、破綻寸前の高速度化。風や水やモノの感触は描かれていても、予定調和な筋書きをなぞるキャラクターに、ナマな想いの感触は感じらない。これは宮崎の先鋭化か衰退か。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







カリオストロの城』の潜水シーンを彷彿とさせる、水の表現。圧力、流れ、光の屈折による像の歪み。更には、フジモトの顔に丸々と浮かぶ汗の粒や、カップの縁から溢れ出さんばかりのスープ、バケツの形のままポニョを入れて飛び出す水など、デフォルメされた表面張力による、水の物質感。

このアニメに於いて「津波」と「嵐」は、広大な空白としての「海」と「空」の暴走であり、その宇宙的な白紙の上をうねって走る線、線、線、の殴り描きに他ならない。画面から溢れんばかりの水、水、水は、光の屈折によってポニョや宗介の姿をぐねぐねとしたシンプルな線画にしてしまう。「水」は、子供の落描きのようなデッサンをスクリーン上に堂々とぬけぬけと展開する為に要請されたように思える。

物語の舞台装置としての「幼稚園に隣接して老人ホームがある世界」とは、小難しい理屈などかなぐり捨てたくなった老人・駿が、幼児のアナーキーな純粋さという大波に乗って疾走せんが為に設えたシチュエーションではなかったか。宗介の母・リサの、子供たちや自身をいちいち危険な状況に突っ込ませる無責任ぶりも、言わばジェットコースターに子供たちと乗ってくれるノリのいいお母さん、といったふうに見えてくる。

ポニョの「お魚⇔半魚人⇔人間」のメタモルフォーゼは、フジモトが蓄えていた魔法の力を借りた部分もあるにせよ、概ねポニョ自身の想いの強さとか気合いによるもので、その辺りは前作『ハウルの動く城』でのソフィーのメタモルフォーゼを継承するものだ。ただし、ソフィーのそれは「若さ」と「老い」の間を彼女の繊細な心の動きに沿って往き来するもの。ポニョの「幼児性」はそうした二元論的な区別の外にあり、海の世界と人間世界、夢と現実の境界さえ撹乱させる。

大胆不敵な「漫画映画」としての瞬間風速的な勢いでグイグイと話を前に進めていく強引な語り口は、「物語」の解体とか何とか言って称賛したくなる所も無くはないのだが、実際にはむしろ紋切り型でお約束通りの物語を早口に語っているだけなのだ。恐ろしいほどあっけらかんとした予定調和と健全さが、却って狂気と異常性を漂わせる。この映画に、どことはなしに感じてしまう死の匂いは、この徹底した空虚さに由来するものに違いない。

当初は観る気も無かったこの映画を映画館に観に行ったのは、或る作家さんのエッセイで、「メタファー満載」とか「作家性とエンターテインメント性の理想的な両立」といったことが書かれていたからなのだけど、観ている最中はそんなことを微塵も考えなかったので、何か見落としたかと不安になったくらいだ。

まあ確かに、ポニョを追って陸に上がったフジモトが絶えず水を撒き続けていないければならない姿に、グラン・マンマーレ(=海)への依存心を指摘したり、そんな彼が冒頭場面で、何やら怪しいテクノロジーを用いて海の生き物の世話をする姿に、ディープエコロジスト風の、人間をやめたつもりのフジモトすら、合理性や観念性に囚われているのだと見たり、魔法の力が弱まって眠りそうになるポニョと宗介がトンネルを通る場面に、通過儀礼的な暗喩を求めたり、等々、色々とそれらしいことを言おうと思えば言えるのかもしれない。

だけど、そうしたアイデアが仮に宮崎監督の頭の中にあったのだとしても、それがきちんと作劇的に活かされているとは、ちょっと言い難い。曖昧なイメージ・スケッチや構想メモをそのままブチまけたような仕上がりで、瞬間的な映像の閃きに依存しすぎなのはやはり欠陥と言わざるを得ない。

かつての宮崎監督の映画で僕らが感動できたのは、単にアニメーションの迫力に押されたからではなく、そこにキャラクターたちの喜怒哀楽や強い想いが込められていたからだ。その瞬間の表情、動きがきちんと物語上の文脈を前提として描かれていたのであり、今回はそうした意味での丁寧さが欠落している。ポニョには葛藤や躊躇といった、内的に克服すべきものが皆無で、「人間になりたい!」と思えば、ポンっと手足が生えてくる、といったアニメ的ご都合主義の権化だ。

ポニョの障害物は、フジモトや、唐突に降って湧いた世界の危機、といった外的なものだけで、その辺は、ポニョや宗介の努力とは大して関りないままに、ポニョの妹たちや、グラン・マンマーレの助力により、克服というほどの抵抗も受けないままに克服してしまう。このポニョの妹たちというのがまた、金太郎飴みたいに同じスマイル・マーク風の記号的な顔で、矢野顕子による無根拠な多幸感に充ちた笑い声なども相俟って、この映画の不健全なまでの健全さ、不気味な明るさを象徴している。

派手なアニメーション表現よりも、ポンポン船でのポニョと宗介のシーンの方が好ましい。惚れた男に逢う為には平気で大災害を引き起こすほどパンクな赤毛の女、ポニョが、船長として決断を下す宗介に対して従順に、甲斐甲斐しくサポートする姿は何とも微笑ましい。それなりに悲愴な状況であるにも関らず、どこか長閑な船旅気分で、オモチャの船での『アフリカの女王』ごっことでもいった風情の、ほのぼのした空気が心地好い。

このポンポン船の場面がいいのは、マッチの火の熱さや、ポンポン船の操作などを丁寧に描いていたからであり、こうしたディテールの表現こそが、この作品の美点。映画の序盤でも、そうした丁寧さは見えていた。宗介がポニョを蛇口の下に落して、ポニョがパタパタする場面や、ポニョが瓶にはまった時のキュ、キュ、キュという音とアニメの絡み方など、ポニョの「ポニョ」っとした感触が、あの何とも二次元的な線画で描き得ていることの驚き。

こうした「実感」を丁寧にすくい上げた描写が光るだけに、余りに安易なハッピーエンドや、最後に婆さんたちが簡単に立ち上がって駆けまわるという、アニメ的ないい加減さがなぜ出てくるのか理解に苦しむ。これは、普段から宮崎さんが絵空事としてのアニメを批判している言動と矛盾しないのか。フジモトが巨大な月を指さして「世界が滅びる!」と叫んでも、何か紙芝居的な嘘くささが漂う。

「子供の為に作った」から、細かい点での省略や、多少のご都合主義は構わないじゃないかと考えるべきだろうか。いや、この映画をまた何年後かに子供たちが、DVDなり日テレの放送なりで観た時、「なんだ、こんな話だったの?」と失望しかねない。子供に子供騙しは通用しないとは、他ならぬ宮崎さんがどこかで言っていたと記憶しているんだが。

宮崎さんはかつてインタビューで、タルコフスキーの『ストーカー』の、水の上をゴミがスーッと流れる場面だけで、「これは正座して観なければならない映画だ」と感じさせられる、そんな純粋な映像の力の存在について語っていた(ロッキング・オン刊『黒澤明、宮崎駿、北野武 日本の三人の演出家』)。今回はそれを、アニメの原初的な表現である線画で、シンプルに試してみたのだと見ることも出来る。大概の人が、狐に抓まれたような思いで映画館を出るであろうという点では似ている、のか?

(評価:★3)

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