[コメント] TOKYO!(2008/仏=日=韓国=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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三作品に共通した概念を、あえてさがすとしたら「排除」だろう。
ミシェル・ゴンドリー監督の「インテリア・デザイン」では、志がないと恋人から言われたヒロコ(藤谷文子)は、自らモノと化すことで、志しある(と思い込んでいる)者たちの一群の前から姿をくらまし安住を得る。ヒロコは自ら、ある種の人々を排除した、あるいは逆に排除されてしまったのかもしれない。いずれにしろ、そこに引かれた一線で彼女は快適さを手にするのだ。実はヒロコのような安息を求めている者の方が、今の東京(いや日本)では本当は多数派であろう。その証拠に、自分の胸に手をあてて「俺の、私の志しは何だ」と問うてみるとよい。実は、自分はすでに誰かの椅子であり机でしかないと、気づくかもしれない。
レオス・カラックス監督の「メルド」は、そんな大衆に蔓延した快適さが突如として謎の怪人メルド(ドゥニ・ラヴァン)によって破られる話である。私たちは、不審者を見かけると当然の如くその人物を排除する。では何故、その人物が不審者なのかというと、その人物のことをよく知らないからだというのが主な理由だ。メルドのテロ行為は「日本人が嫌いだ」という理由で慣行される。メルドは自らが排除される少数者であると知っていたから、先制攻撃という手にでたのであろう。それでは、もし日本人が数的にも勢力的にも非力な世界では、いったいどこの誰からどんな排除が我々になされるのだろうか。
引きこもり男(香川照之)もまた、自ら社会を排除してしまった存在だ。ポン・ジュノ監督の「シェイキング東京」は、10年間引きこもった男のなかに蓄えられた静かだが激しい負の思いを、社会の様相を変転させてしまう巨大地震のエネルギーとして描く。そのエネルギーを誘発するきっかけが、宅配ピザ少女(蒼井優)への思いだというのは一見軟弱に過ぎると思えなくもない。しかし、社会(すなわち世界)をも排除し孤立してしまった者にとっての唯一の拠りどころは、当然のごとく自分自身の心情しかない。恋愛感情ほど個的で、排他的なエゴイズムはないことを経験者なら知っているはずだ。
「排除」は社会の硬直化と、そこに暮らす人々の意識の固定化から生まれる。今や「TOKYO」は、ただの巨大な人溜まりと化しつつあるのではないだろうか。そんなことを考えさせられる、面白いオムニバス企画だった。
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