[コメント] 12人の怒れる男(2007/露)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まず思ったことは、1957年に作られたシドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』との大きな違いです。あの映画はもちろんモノクロの映画だったわけですが、本作のカラーの色づかいは、明らかに前の作品への挑戦ではないかと感じました。
アメリカの知的生産者の集まりだった前作と、ロシアで展開される本作とでは、同じ題材を使いながらも、全く違う作品でした。
前作の密室劇と比べても、本作は多分に開放的です。
チェチェン人の少年の踊りについても然り。その延長には戦争と人種差別が映し出されます。
ここに登場する12人の陪審員は、前作同様、それぞれの人生について語り始めます。それは舞台劇の面白さです。そしてそれぞれの語る悩みや人生は、このドラマの中に多重構造として重くのしかかります。さらに、その物語が重層することで、次第にこの映画の目的が明らかにされます。
そして前作同様、逆転劇で収まろうとする瞬間にミハルコフ演ずる芸術家が最後の最後にどんでん返しの一発を打ちつけます。それはこの映画の大きなポイントとなるツールである”ナイフ”が、観客に向かって突き刺すように、ものすごい勢いで差し込んできます。
戦争、復讐、嫉妬、犯罪、人種、虐待などなど、ありとあらゆる罪がここで暴露される瞬間です。この最後の一瞬で、容疑者を裁こうとしていた陪審員全員が実は犯罪者だったことに気づかされます。それは見る側がどこかに持つなんらかの犯罪的行為や意識。例えば誰かを”殺したい”と思う気持ち。子供を虐待したいという気持ち。そういう見てはいけないもの、あるいは言葉にしてはいけないものを暴露することがこの映画の本質だったんだと思います。
この展開はまさにロシア文学の巨匠ドストエフスキーにも共通するもので、いかにもロシア的な映画だったと思います。罪を明らかにし、それを認めたうえで、自らをいさめること。こんな恐ろしいことを映画の中で展開できるなんて、たぶんほかの国の映画では絶対に実現できるものではありません。確かなロシア映画だったと思います。
しかしながら、これらはすべてミハルコフがしかけた罠なんですね。彼はこの映画で最後の最後にほのめかします。陪審員室に紛れ込んだ小さな鳥。映画の中でずっとうごめいている小さな鳥。これの意味が全くわからなかったのですが、最後にこの鳥を部屋から解き放ちます。その意味こそ、この映画の言わんとすること。鳥に向かって、この映画の中心人物である、唯一の無罪を主張した紳士(前作ではヘンリー・フォンダの役ですね)が言います。
「外に出るのも留まるのも、自分次第だ。」
つまり、自律を促しているんですね。ここまで見ないと、この映画は完成しません。ミハルコフは緻密にこの最後のセリフを待っていました。陪審員として集められたほとんどの人は、他人の判断に自分の意思を委ねます。そして自分自身の犯罪歴を語るうちに、自らの判断に行きつきます。
実は、この映画で最初から自律した判断を持ち続けているのは、容疑者となってチェチェン人の少年と、芸術家の二人だけです。そしてこの芸術家も実は元将校で、この部分は多くを語りませんが、小さく嗚咽するシーンが印象的で、過去に何かがあったことを示します。
混乱する社会の中で、自ら自律することを促す最後の衝撃は見事でした。ずっと見続けていないと、本質を見失ってしまうほど緊張した瞬間が続きます。
これはミハルコフが仕掛けた巧妙な”罠”ですね。
黒澤明監督の『用心棒』を思わせるラストシーンも含蓄がありますね。犬が腕を加えて走ってきます。その腕の指に光る指輪の光。この残忍なラストシーンに光明を見出すことができたでしょうか?ほんのわずかな希望を、この見苦しいシーンで表現しているんですね。
見れば見るほど胸に刺さる映画でした。
2009/03/31
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