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[コメント] ダイアナの選択(2007/米)

情動をかき立てない「水」の反復や、先に想定された結論から雑に導かれたようなプロットなど、頭で考えた通りに撮っているだけの詰まらなさが目立つ。蜷川実花風の美麗な映像も、この映画が必要としていた筈の生の煌きを捉えるにはあまりに人工的。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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トイレの破壊された水道管からの噴水。他人の庭のプール。スプリンクラーが噴射する水飛沫。そうした「水」の反復は、「人体の七割は水」とか、ダイアナ(エヴァン・レイチェル・ウッド)がモーリーン(エヴェ・アムーリ)に語る「だから境界は無い」とか「雨のように他人を取り込んでいく」とか何とかいった台詞に対応させて、生命への慈しみを「水」に込めるといった演出意図があったのだろうが、画として「水」の輝きにそうした瑞々しさを感じさせるショットが本当にあっただろうかと、かなり疑問に思う。その辺りを含めて、全て頭で拵えた作品という印象で、『砂と霧の家』の、ふとした瞬間のショットの詩情や、何気ない台詞の優しさがときに残酷に響くなど、繊細な演出は殆ど影を潜めている。

例えば、親子三人でレストランで食事をしているシーンでの、「善と悪」をテーマに講演するという夫・ポール(ブレット・カレン)がダイアナ(ユマ・サーマン)の「例になる悪い子がいるわ」という言葉を受けてふざけて娘(ガブリエル・ブレナン)を脅かした瞬間、娘が肉を詰まらせることで生じる緊迫感。あまり生徒に好かれてなさそうな、堅物の生物担当の教師がふと口にした「人体の最も強い筋肉は心臓。脳には銀河の星より多くの細胞がある。人体の七割は水」という、単なる科学的事実ではあるが、どこか詩的な話。虚を衝かれ、感動した面持ちのダイアナ。その彼女が、教師が少しその場を離れた隙にタチの悪い悪戯書きをした生徒を見つめる表情。その、骨格模型に向けて書かれた「アバズレ」がダイアナに向けられたものだと解釈して彼女を慰め、却って友情が失われそうになる親友・モーリーン。こうしたシーンはさすがにヴァディム・パールマン。だが、ミステリアスなプロットの割には「謎」で興味を惹く構成になっておらず、高校パートも成人パートも日常生活の幾らか平板な描写が主なのが難。

何より、肝心の、ダイアナが自らを犠牲にして親友を救う選択を行なう動機が、観客にそれとして了解される形で描かれていたとは言えない。ポールがウィリアム・ジェイムズの言葉「明日の自分に今日なろう」を引いて、「良心」について爽やかに講演するのを高校生のダイアナが傾聴しているシーンなど、何の説得力も無い。「想像力によって未来の自分を想像して下さい」といった台詞が最後の種明かしに結びついていることは、鑑賞後に気がつくが、観ている最中は、退屈な美辞麗句が垂れ流されるだけで含蓄の無い話にしか聞こえない。成人パートでダイアナが夫の傍らで寝ながら「生きている資格が無いわ」と呟く台詞は、ダイアナが想像した「未来の自分」がもし親友の犠牲と引き換えの人生を生きていたらそう感じるであろうことを示唆し、邦題の「ダイアナの選択」の理由を明かすが、どうも変なのは、この成人パートは「選択」後に撃たれて倒れたダイアナの脳裏に展開しているものである筈だという点。「選択」の理由が、「選択」後に展開している筈のシーンに描かれているという、論点先取りの誤り。この辺がまた、予め頭に描いた設計図通りに撮ったような不自然さの一因でもあるだろう。

唯一、乱射犯である少年が口にしていた学校への不満にダイアナが賛同していた、という一点が、ダイアナが自ら犠牲になる動機らしきものの一部を成してはいるのだろうが、そのダイアナの鬱憤というものも説得力ある描写が為されていたとは言えない。

成人パートでの、反抗的な娘の態度や、才能があるのに恋人の為に町にとどまろうとする教え子は、高校生ダイアナ自身の投影のような存在。消えた娘を探して森で彷徨う成人ダイアナは、娘を失う恐怖という、母が味わっているであろう感情を反復しているわけだ(序盤でこの娘が、森にピクニックに行きたいとせがんでいたのが伏線になっているのだろう)。だが、教師はまだしも、母は存在感が希薄に過ぎて、高校パートと成人パートが情動的に有機的に絡み合うような構成になってはいない。乱射シーンで校外の母にダイアナの名を叫ばせてみたところで、それが何になるというのか。「母の悲劇」という「意味」だけが了解し得る、記号的な表現に過ぎない。

蜷川実花を思わせる、カラフルで濃い色彩の滲む画作りは、ティーンエイジャーの刹那的な生とリンクする面もあるのだろうが、幾らか現実感を逸脱したその美しさは、本来ならば日常の生の煌めきをそのまま見せるべきこの物語に、余計な人工着色料を混入してしまった観がある。

終盤で、既に使われていたシーンをそのまま反復するのも鬱陶しい。同じシーンがまるで印象を異にして再登場するというのなら必然性があるが、単に制作者側が重々しい気分で同じ映像を見つめながら編集していただけの話ではないかと、虚しくなる。

(評価:★2)

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