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[コメント] 夏時間の庭(2008/仏)

オルセー美術館二十周年記念の一環として制作されたというこの作品。美術品が異なる場所に置かれ、異なる人々に囲まれる様を見せ、美術品の存在意義を静かに、だが根本的に(かつ映画的に)問う姿勢が挑戦的。美術品の運命を通して、「時間」を描いた映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
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今回のジュリエット・ビノシュは役柄のせいもあり、非常に厭味な印象。柴崎友香の『見とれていたい わたしのアイドルたち』にはジュリー・デルピーとビノシュを比較してビノシュの厭味さに言及していたが、例えば『ショコラ』のような作品であれば巧く隠れるその厭味さ(とはいえキレるシーンではその片鱗が覗くのだが)が本作では表面化。金髪であることがこれほど厭な印象を与える女優もなかなかいない。

とはいえ、日本で売るための食器のデザインをしているらしいアドリエンヌ(ジュリエット・ビノシュ)の仕事は、花が活けられず展示されるだけの花瓶よりは、生活の中での本来あるべき役割を果たす物を創造しているのかもしれない。一方、屋敷の暖炉の上には日本風の作品が置かれていたりもする。フランス美術への日本の影響という過去と、その日本からの依頼でフランス人デザイナーが仕事をしているという現在。

この時間性は、屋敷に美術館員を招いて鑑定させるシーンでフレデリック(シャルル・ベルリング)が、壁にかかるコローの絵に描かれた場所について「今はスーパーが建っている場所です。さっき通りましたよ」と説明する台詞にも表れている。或いは、無人の屋敷を外から覗くことしかできない老家政婦・エロイーズ(イザベル・サドワイヤン)を、屋敷内から窓ガラス越しに捉えたショットがしばらく続くシーンと、ラストシーンでの、若者たちのパーティ会場として屋敷が占拠される光景との対照性。だがまた、そのパーティに友人たちを招いたシルヴィ(アリス・ドゥ・ランクサン)が、祖母エレーヌ(エディット・ スコブ)の思い出が失われることを最後まで惜しんでいたことが明らかにされるラストは、柔らかなバランス感覚で作品全体を包み込む。

そのバランス感覚は、美術館の役割に対しても同様だ。例えば、屋敷に置かれていたドガの塑像が、子供の頃のフレデリックらによって、修復困難とも思えるほどに破損されてしまったという事件。「大事件だった」と苦笑しながらフレデリックは振り返るが……、これは、僕のような一美術ファンとしては「ドガを破壊した…だと!?」という話ですよ。それが美術館に寄贈したお陰で、見事な修復技術を受けることができた。来館者に館員が解説しているシーンでは、修復担当者の技術が、予想以上に塑像を救ったことが語られる。

尤も、そうして集められた展示物が、愛着のような感情とは無縁な観察対象となってしまっている点は、展示物の説明を受けながらも携帯電話でデートの誘いをする男の姿で示唆される。フレデリックは妻に対して、そうした美術品たちの運命を嘆いてみせるが、その一方、「自然光を受けていないと」と嘆かれた花瓶はまた、二人が去った後、美術館のガラスケースの中で、窓から射す光に美しく輝きもする。花瓶として生活の中に在ることから疎外されてはいるのだが、そこに生活する人の息吹のない空間で、純粋な輝きを発する花瓶。

屋敷への愛着が、そのまま家具への愛着としても理解できる辺りが秀逸。大叔父ポールの最後のデッサンが、屋敷の中から庭を眺めて描いたものであることなども、本来、芸術は生活の一部であることが見てとれる。コローの絵の風景が今はスーパーであるように、屋敷ももう、売り物となってしまうのだ。

生活の場から、展示物、或いは金銭的価値へと移行していく美術品。その過程はまた、思い出というものが、その温度を失っていき、抽象化されていく過程であり、作品が生まれ、息づいていた場所が失われ、具体的な記憶から引き離された「価値」だけが残されていく過程でもある。

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