[コメント] TOKYOレンダリング詞集(2009/日)
普段の生活の中でも、どこかで聞いたような言葉の切れ端が、その文脈は思い出せないままふと脳裏に浮かぶことがあるが、そんなふうな言葉たちが、これまた普段目にするような街の風景に重ねられて浮かび上がる。
時に、言葉が風景への疑問符のように浮かび上がり、時に、浮かび上がった言葉そのものがその意味するところを問われるような、宙ぶらりんの風景の中に置かれ、時に、風景と言葉との隔たりとしての空虚の中で、言葉と風景のもたらす淡い印象が、曖昧かつランダムに漂う。
監督自らパソコンで編集したというこの作品は、私的な詩的ノートのようなものだろう。試みそのものは評価したいが、全篇が固定のロング・ショットで撮られた風景は、言葉との微妙な響き合いをなすというよりは、抽象的な「風景」として任意の場所が選ばれた感が強く、「試み」としての積極性には乏しい。意味を宙吊りにされたまま、一個の曖昧な印象として提示された一つ一つのカットは、言葉と風景とが互いに干渉し合うような化学反応は薄く、淡い印象だけを残して消え去っていく。悪い意味でCF的。結局、二つ三つ観れば監督がこの作品で何をしたいのか大体のところは分かってしまうので、あとの時間は単なる惰性のお付き合いと化してしまう。
言葉と風景の距離というテーマなら、同時期に撮られた『buy a suit スーツを買う』という傑作があるのだから、こんな中途半端な作品を提出する必要がどこにあるのか理解に苦しむ。なんだか、おじさんの退屈なポエムに延々とつき合わされたような虚しい後味が残る作品。
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