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[コメント] コレクター(1965/英=米)

“respect”という針で刺す。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







フレディはミランダに対し、「敬意(respect)は払う」と言って、彼女の体に触れないでいるのだが、終盤、監禁からの解放が絶望的に思える状況下で彼女がフレディに身を任せようとすると、いったんは彼女を抱こうとしていたフレディは、演技だろう、と彼女を撥ねつけ、「娼婦とおんなじだ。敬意を払ってきたのに」と激昂する。ミランダから愛を得ることを目的とした監禁という手段が、却って、ミランダが彼に示す行為の全てを、解放されるための演技という嘘以外のものであり得なくさせている、という皮肉な構図が見てとれる。

その一方で、フレディがミランダの体を拒む様子を見た観客の、おそらく誰もが、「死んだ蝶ばかり眺めていた彼は実は、生身の女性に対して不能なだけではないのか?」と疑っただろう。フレディの隣人が突然訪ねてくるシーンでは、風呂場にいたミランダが浴槽から湯を溢れさせて事態に気づいてもらおうとするのだが、それを防いだフレディはミランダの裸体を目にしていながら、「敬意」を払っているのか何なのか、彼女の行為に怒りを抱いていながらも、性的な行為を強いようとはしない。それ以前に、そもそも彼女に性的な関心を抱いているような印象さえない。彼がすることはせいぜい、二度目のクロロフォルム使用後に、ベッドの上のミランダに添い寝することくらいだ。尤も観客は、次のシーンで目覚めたミランダに「断っておくが、昏睡しているあいだ、君の体に手を出してはいない」と告げたフレディの台詞が真実だと断定できるわけではないのだが。

フレディがミランダを見初めたのは、バスで通学する彼女を見かけていたからだが、彼女の死後、次の獲物として狙うのは、看護婦。これもやはり、ミランダにシャベルで頭を打たれた彼が入院していたあいだに彼女に目をつけたということだろう(フレディが地下室に戻ると、衰弱しているミランダは「三日間は長かったわ」と言う)。内向的な彼は、目にした蝶を捕獲し標本化するように、目にした女性をそのまま捕まえようとする。確かにミランダと会話を交わしてはいたが、外で声をかけるのではなく、強引に自邸に拉致監禁した後でそうするのだ。つまり、「生きた生身の女性」としての存在そのものが、フレディの家という自閉的な空間に固定され限定され、つまりは標本化される。結婚を申し込む台詞に於いてさえ、ただ同じ屋根の下にいることだけを求め、体は求めない(因みに黒沢清のドラマ『贖罪』の一話ではこれと殆ど同じ関係が描かれていた)。そうして「愛」を標本化しようとする行為しか考えつかないフレディの矛盾は、冒頭に指摘した通り。

澁澤龍彦はこの映画を、セックスや金銭を目的とした「反社会的」な誘拐ではなく、ただ所有するための誘拐という「非社会的」な誘拐を描いていながらも、その「観客の理解を絶した」非社会性という「虚無の深淵」から作品の方向性を逸らそうと、「階級的コンプレックス」を付け加えたと指摘している。その指摘は一応は首肯できるのだけど、「観客の理解を絶した」というのは、高貴な変態としての澁澤の選民意識が吐かせた言葉でしかないのかもしれない。また澁澤は、この映画で最も美しいのは、多彩な蝶の標本が置かれた部屋でミランダが再びクロロフォルムを嗅がされて蝶と同質化するシーンだと言っている。このシーンでの二人のポーズがバレエ的に計算されているというのは確かにそうかもしれない。だが僕としては、最も美しいシーンは、この標本室にミランダが最初に招待されるシーンの最後、ドアが閉められた際の風で、死んだ蝶が生きているようにひらひらと舞うカットだと思う。「ドアを閉める」という行為は、この映画の全篇に渡り、ミランダを監禁(=標本化)するためにフレディが何度も繰り返す行為なのだ。

学校の前で友人と笑顔でお喋りをする姿で登場するミランダが街を歩き回るシーンでは、彼女は特に魅力的でもなければ美しくもない。だが監禁されてから途端に美しさを増していく。自らが置かれた状況への怯え、怒り、絶望といった感情さえ彼女の表情を活き活きとさせる。さらには、ミランダがフレディに身を任せようとするシーンや、頭部を負傷したフレディに「死なないで」と祈ったり、生還した彼の姿に喜んだりする様は、自分の身を守るためだとはいえ、彼女自身の「内面描写」を伴わない外面的な光景に終始する映像という媒体の性格上、恰もミランダがフレディを想っているかのように見えてしまう瞬間がある。要するに、この映画そのものがフレディ同様に倒錯的なわけだ。

フレディが乗るワゴン車の窓からのショットは、ブラインドがかけられていることによって覗き的感覚が強められていて効果的。フレディが、雨の降りしきる外へ飛び出して解放感を味わうシーンは、後に、雨に打たれたミランダが病に罹って死ぬシーンと円環を成し、フレディにとっての解放がミランダにとって逆の意味を担っていたことを、鮮烈なイメージで結びつけ、この自閉的世界観を完成させる。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ダリア[*]

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