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[コメント] ディア・ドクター(2009/日)

見事な方程式だ!と思っていると、最後に解として提示される数字が自分のと違っていて、とまどう。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 序盤、寝たきり老人を診に行ったくだりで、伊野(鶴瓶)は、老人が喉に何かをつまらせた状態であることを早々に看破する。患者の状態を見極めることにかけて、彼は本物に遜色がない。その傍らで、相馬(瑛太)が延命処置の準備をはじめるが、しかし、家族がそれを歓迎しない。彼らは、伊野に「もういいので」と必死に目で訴えかける。特に嫁の介護疲れは痛々しいほどで、彼女はもう勘弁してくれとばかりにエプロンをにぎりしめる。

 伊野は、そんな彼らの気持ちも重々理解している。彼は、村人の事情を誰よりも把握している。だからこそ、その意をくんだように相馬に手を引かせる。

 が――結局のところ、彼は、のばせる命を放り出すことができない、そういう人間なのだ。そうして最後の最後で、老人の臨終をよそおいながら、抱きかかえ、背中をたたいて、赤貝を吐き出させてしまった。

 家族が拍子抜けし、家族の気持ちなど知ったことではない村人たちが奇跡を賞賛するなか、伊野は、そんな賞賛など呑めるはずもない苦悩をかかえて孤独の帰途につく。

 このシーンは、やがて、かづ子(八千草薫)をどうするのか?というハイライトとぴったり整合する。伊野は、患者の事情を汲んで――夫みたいに家族の負担になりたくないというかづ子の心を尊重する決心で偽装を行い、本物の医師である彼女の娘を手玉に取ってしまったにもかかわらず、娘がかづ子の存命中にもどってこないと聞いた瞬間……

 彼は、何のために翻意したのか? 娘の心を無碍にできなかったというのは、もちろん考えられる。しかし、これは、そもそも娘の心を無碍にしてでも、彼女に負担をかけないための工作だったはずだ。おそらく、伊野は、娘がもどってこない=かづ子が受けるべき治療を受けられる機会が永久に失われることを許容できなかったのだろう。

 要するに、彼のマインドは、どんな医師よりも自分の患者のそばに寄り添いながら、最後の最後で医療的正しさを裏切れない、紛うことなき医師のそれなのだ。

 ラストの逃走は、そんな医師のマインドを発揮したことによって医師でいられなくなってしまったというアイロニカルなヒロイズムの発露だったように思う。

 個人的には、脚本に押井守がかつて生み出しえた傑作のようなロジックを、背景の神々しさや演出の丁寧さに黒澤明の片鱗さえ見出しながら、伊野がかづ子に白衣を振ってみせるカットを万感の思いで見ていたのだ……そ・こ・ま・で・は。

 上述したファーストシークエンスとハイライトの整合などを見るかぎりは、ほんとうに私の嗜好にぴたりと符合する方程式を提示してくれる作家のように思える。

 にもかかわらず、答え合わせで提示される解の数字が自分の出した数字とあまりに違っていて愕然とするのだ。

 伊野が逃走のシーンを経て舞台から退場するとともに、ドラマは終了し、伊野論がはじまる。これが何とも底浅でとまどっていると、悪夢としか思えないカーテンコールがペーソスも何も台無しにしてくれる。いったい、どういうことなんだ?

 西川美和は、監督としてまちがいなく豪腕を持っているが、作家としてはよくわからない……深い懐を持っているようなのに、なんかどっかずれている気がしてならない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ペペロンチーノ[*]

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