[コメント] しんぼる(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
男性のシンボルとしてのチ○コから、森羅万象のシンボルとしてのキリストへ。「修行篇」の部屋が、白く四角い閉鎖的な空間であったのに対し、「実践篇」の部屋は広々とした薄暗い室内の床に、天上から射し込む光が揺らいでいる。その天上へ向けて登りゆき昇りゆく中、いつの間にやら長髪髭面白衣に変じているキリスト的松本は、全世界の現象のコンダクターのように、宙で舞い踊る。
メキシコ覆面レスラーのシークェンスが延々と続きながらも殆ど松本パートと無関係なのも、松本と無関係な人生を送る一人の男に、唐突に、意図せざる大影響を与えることのインパクトを表現することに貢献している。松本が、その結果を与り知らぬ所でシンボルを押し続けることで、レスラーはレフェリーも息子もゴングもどつきまくって、メキシコ・パートの世界観は一気に崩壊してしまう。
ただ、レスラーの娘がビッチなシスターであったり、彼女の運転する車が去っていくショットで、車の後に舞う埃が画面を真っ白にしたり、車の後になぜか白い羽が舞っていたり、マリア像に蝋燭の火が捧げられているショットが見えたりと、「白」や宗教的シンボルによって、松本パートとの関連づけは為されている。そのことで、松本が「神」へと超越することと、彼がシンボルに些細な干渉をすることで全世界に影響することとの並行性も、より必然化される。
それにしても、松本が何かあるたびに「ウワーッ!」と繰り返し叫ぶリアクションは寒々しい。脱出方法を模索する中で、希望が見つかると「出れる!」、それが挫かれると「無理やな」といちいち口にするのも、観ていて何だか面倒臭い。しかもカメラ目線なのがうざったい。こうしたことは説明的になるのを避けて、状況によって観客に悟らせる方が効果的な筈なのだが。
白い部屋から出ようともがく松本が、猿に毛が生えた程度の知能しか示さないのも、観ていて徒労感を覚える。例えば、ドアを開くシンボルを押さえる為に壷を移動させる際、シンボルを抑えられるだけの重量を与えようと寿司を詰め込んだら重過ぎて動かせない、というシーン。箸で一つ一つ寿司を取り出すことになるのだが、丸みを帯びた壷なのだから、何とか横にして転がしていけばいいだけにも思える。また、ドアの鍵を出すシンボルがどれだか分からなくなるシーンでは、寿司のネタをシンボルの上に乗せて目印にしていたが、憶えようと思えば少なくとも短時間は憶えていられる位置に在るにも関わらず、目印を乗せる際にまた間違えて怖い犬を出してしまう。その一方で、縄やドアのシンボルには目印無しで問題無く脱出作戦を実行しているという矛盾。
これらのマヌケさや矛盾は、「笑い」の演出上の必要で行なわれているだけなのだと解釈することは出来るが、笑う為にも、こういう場合は観客の方でも、状況の「仕方なさ」「不可抗力」「やむを得なさ」をしみじみ実感させてもらわないと笑えない。
そもそも、松本はこの映画で観客を笑わせようとしていたのかどうか、それすら不明だ。唯一クスリと出来るのは、レスラーが首をニョインと突き出しているシーンくらいだが、そうした「笑い」とは別の意味での可笑しみを感じさせてくれたのは、松本が遂に白い部屋のドアに到達しながらも、壁が閉まって閉じ込められ、自らの体がつっかえてドアが開けられなくなるシーン。ここで回想シーンが入り、松本が白い部屋で結構愉しく過ごしていた様子が描かれるのだが、下手に自由を得ようとしたばかりに、それまで享受していた小さな自由すら失ってしまうという、妙に人生訓めいたものが醸し出されている。しかも自分自身が障害となって身動き出来ないというところが深い(笑)。
「修行篇」では、シンボルを押すという松本のアクションに対するリアクションとしての物体出現と、それに対する松本の方でのリアクションが繰り返されていたが、「実践篇」では、シンボルを押すことで何が起こるか予測不能という点は同じだが、影響は松本自身から外界の森羅万象に移行する。ここでひとつ、芸人・松本の心象風景としての解釈を試みるなら、「修行篇」は、無数の白い天使のシンボルを押して、予測不能な反応の中に一対一対応の法則を見つけて脱出を試みる松本の姿は、無数の視聴者という不可視の存在の反応を探りながら芸人として格闘してきた彼の経験が滲み出ていると見ることも出来る。
そして、神へと至る過程の「実践篇」では、今度は逆に、松本のアクションに対して世界の全てがリアクションをし、戸惑いや、歓喜、成就を得る。尤もこのシーン、動物が転倒するシーンにシンボル押しの効果音を入れるなどするのはいいのだが、兵隊さんが行進するのに合わせて効果音を入れるのは、出来合いの現象に音を合わせているのが丸分かりで、巧く「松本の影響」を演出し得ていない。
「実践篇」で上昇しきった松本が辿り着いた部屋の壁には世界地図が浮かび上がり、世界中の音や声が聞こえてくる。そこに到達するまでは、自身の影響を見ることも聞くこともなかった世界が、松本に対して丸ごと預けられた状態に。上を目指して必死に登っている内に、知らぬところで世界を動かす存在となるという、芸人・表現者としての誇大妄想爆発な過程を経て、その先に「未来」が不確定のまま残されるわけだ。ここで僕の脳裏には、『2001年宇宙の旅』の原作小説のフレーズが想起された。「世界はいまや彼の思いのままだが、さて何をするかとなると、決心がつかないのだった。だが、そのうち思いつくだろう」。
前作『大日本人』では、マスコミから批難される巨大ヒーローを淡々とした哀愁を込めて演じていた松本。本作でも、大衆から見られる存在でありかつ「闘う男」であるレスラーを登場させている点に、前作とのテーマ上の繋がりを見るべきだろう。前作では、自分の芸を或る歴史性の上に成立するものとして肯定しようとする姿勢と、むしろその歴史性ゆえに行き詰まり感を漂わせる状況との葛藤が見えていた。今回はまさに「未来」、自分の理想通りに究極的かつ完璧な存在(=神)へと至ったとして、その先に何があるのかと自問している様が見える。言わば、自らの自我を宇宙大に膨張させた風景の前に自身を立たせてみる実験。この映画を何と評すべきか。「真摯な自慰映画」とでも呼んでおこうか。
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