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[コメント] ワン・ツー・スリー ラブ・ハント作戦(1961/米)

ワイルダージェームズ・キャグニーに感謝すべきだ。「演技者」としてよりも「被写体」として優れている俳優を好む傾向にある私は、キャグニーについてもまずその被写体性とでも云うべきものに魅かれているのだが、しかしここでの彼は演技者としても抜群に巧い。演技の巧さが求心力となり、映画を支えている。
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そうは云っても、やっぱりワイルダーの演出だって大したものだ。タイトルバックの「剣の舞」からすでに、(毎度のことではあるけれども)ワイルダーの「これからオモロイもんご覧に入れまっせ〜」とでも云いたげな厭らしい笑みが透けて見えアチャーとなったのだが、それは杞憂に終わったというか、この映画における速度感の捏造ぶりは率直に凄いと思う。

「速いこと」や「遅いこと」がそれ自体のみをもってして即座に映画の美点なり欠点なりになることはないが(いや、やっぱり「速いこと」は美点になるかしら)、とにかく、これは決して速い映画ではない。それはいかに展開が突飛であろうとそこには「飛躍」がないからで、云い換えれば、物語がひとつびとつちゃんと手順を踏んで進められているということ。それがワイルダーがストーリィテラーとして評価される所以であり、同時に物足りなさを覚えるところでもあるのだろうが、それはともかく、ではどのようにしてこの速くはないはずの映画に速度感が捏造・付与されているのか。

所謂「マシンガン・トーク」がその一因であることを否定はしないが、それ以上に「人物の出し入れ」の演出のためではないかと私は思う。後半で長々と繰り広げられる社長室シーンはほとんど会話劇と化しているのだが、徹底して「ドアー」を使った執拗な「人物の出し入れ」が画面内にアクションを導入し、それとともに、「退場」がきっちり視覚化されているので、写さずにしてキャラクタのその後の画面外における行動を描くことになっている(まあ、写さないから「画面外」なのですけど)。ここで、後者がもたらしているものとは「時間の圧縮」効果だ(各キャラクタの全行動をいちいち画面で語っていたらどれだけ冗長になるでしょう)。したがって、後者は形而上レヴェルでの、前者は形而下レヴェルでの速度感に貢献している、とでも云えるだろうか。

いささかこれ見よがしなところが強いとは云え、律儀に物語に従属しつつも「ドアー」「人物の出し入れ」演出で観客をぐいぐい引っ張っていくここでのワイルダーは、さすがにルビッチの血を受け継いでいるだけのことはあるなあ、と思わせるほど。

(評価:★4)

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