[コメント] かいじゅうたちのいるところ(2009/米)
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「狭く暗い空間」が、劇中何度か反復される。姉(ペピータ・エメリッチズ)の友人たちに雪合戦を仕掛けたマックス(マックス・レコーズ)が、反撃を逃れようと嬉々として潜り込む、手製の雪の洞窟。それを少年に壊されたことで、急に涙ぐむマックス。マックスが、彼の上に折り重なったかいじゅうたちと眠るシーンでの、かいじゅうたちの体毛と重みと温かさに包まれた暗闇。かいじゅうたちと一緒に作る砦の薄暗闇。最初に仲良くなったキャロル(ジェームズ・ガンドルフィーニ)との齟齬が生じた際、独りで居るところをキャロルに見つかったマックスが、砦の中に「王様には必要なんだ」と、小さな部屋を作ろうとしていたと告げる台詞。その言葉に苛立ったキャロルが、砦の壁を殴って穴を空けてしまう行動。腹を立てたキャロルがマックスに向かって「食べてやる」と言って追いかけてくるシーンでの、KW(ローレン・アンブローズ)が自分の口の中にマックスを匿う行為。
このKWの腹は、KWの性別が雌であることによる子宮回帰性や、キャロルに食べられそうになっているマックスを「腹の中」に匿おうと呑み込むことからしても、その母性的な安心感が醸し出されている。が、当のマックスは、「ここは息が詰まるよ」と、自らその安心な暗闇から出ることを望む。空想好きのマックス、自分の空想や願いに沿わない周囲の人間に当り散らす少年・マックスは、そうした子どもっぽい自閉性から、ほんの少し抜け出したのかも知れない。最終的には母(キャサリン・キーナー)の許へ帰ったマックスは、テーブルで食事をとりながら、心配疲れで眠ってしまったらしい母の寝顔を見つめている。このラストカットによって、それまではより大きなものに包み込まれることばかりを求めていたマックスが、一つ大人に成長したことが理解できる。マックスと初対面した際には、喰うとか何とか恐ろしげに喋っていたかいじゅうたちが、劇中、何も食していないのも、「食べる」という行為をマックスの帰還の標としてラストに持ってくる為だったのかな、と思わなくもない。少なくとも、母が出したコーンに文句をつけていたマックスの台詞はラストの伏線だろう。
先述した「闇」との絡みで言えば、マックスが家から飛び出すのも、帰って来るのも夜。そして、航海の末に漂着した島での、暗闇の中で燃え上がる炎。そこで行なわれている、キャロルによる破壊行為。それが仲間たちから理解されていない様子を見てとったマックスが、家での自身の姿と重なったのか、事情も知らないままに参加していくこと。マックスが「王様」を名乗ったことにかいじゅうたちが調子を合わせていたのは、実はキャロルに気を遣ってのことに過ぎないことが終盤で明らかにされるのだが、そのキャロルに対して「もう手に余る」と言わざるを得なかったマックスは、母が自分を持て余して叱りつけた想いを追体験したわけだ。だからこそ、別れの際にマックスが、キャロルが自らの作った模型を破壊した残骸に、キャロルの名を印しとして残していった行為は、母がマックスを赦して迎え入れる行為を予め反復している。またこれは、雪合戦で腹を立てたマックスが、姉の部屋を蹂躙し、自分が姉に贈ったプレゼントを破壊した直後、そこに自分が書きつけていたメッセージを目にして哀しむ姿の反復でもある。
大きくて重そうな頭をもったかいじゅうたちが、駆け回り、跳躍する躍動感。それに合わせるかのように揺れ動く手持ちカメラも、その臨場感が、キグルミ的なかいじゅうの造形とのミスマッチの妙を醸し出す。かいじゅうたち自身の台詞回しや、リアルな諍いの発生(顔を踏まれる痛みや、泥合戦による怪我を訴えるリアルな身体性も含め)なども、そのキグルミ性と相俟っての妙味を生む。
かいじゅうたちが、重量感のある体を躍動させる「アクション映画」としての面目は、特に泥合戦のシーンに顕著だが、単にかいじゅうとマックスが砂漠を歩いているだけのシーンにも独特の風味がある。また、KWが、空を飛ぶ二匹のフクロウに物を投げて落とすアクションは、その意味不明な唐突さと、画の空間性によってインパクトを生じさせる。
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