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[コメント] スイートリトルライズ(2009/日)

本来は江國香織の小説内でのみ不自然さを免れ得る台詞も、中谷美紀という稀有の存在によって、確かな身体性が与えられる。「死」のイメージの甘みや、夫婦の、互いを裏切る行為が却って、想いの重ね合いとも感じられる編集など、繊細な作品。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







だが一箇所、どうしても違和感が残るのは或るシーンでの、瑠璃子(中谷美紀)が泣きながら「こんなの全然スイートじゃない」と言う台詞と、春夫(小林十市)の「それはとてもスイートじゃないか」。このシーンに至るまでに「スイート」という言葉にこの二人なりの意味を与える演出が皆無なので、唐突に作品タイトルがあからさまに口にされる違和感が残る。映画館からの帰りに本屋で原作を覗いてみたところ、上述の台詞は原作通りのようなのだが、やはり、小説内の「書かれた」言葉と、役者が演じてみせる台詞との差異は無視すべきではない。

この映画の「スイート」は、終盤の、骨壷から砂糖が掬いだされるシーンに端的に表れているように、「死」のイメージと結びつけられている。例えば聡(大森南朋)がしほ(池脇千鶴)と弁当を一緒に食べるシーンでは、二人の背後に墓場が見える。芽を出したジャガイモに含まれるソラニンという毒が心中に使えると思い込んでいる瑠璃子は、その毒が、せいぜい腹を壊す程度のものでしかないことを知らされると、拍子抜けしたような表情を見せる。彼女が聡と行く旅行先でも、心中死体が浜辺に上がるし、家で料理をする瑠璃子が、料理包丁を手に、「聡が浮気したら、殺しちゃうわ」と口にする場面もある。死は、愛とワンセット。芽を出したジャガイモというかたちで「死」が家の中にあることが、聡に対する瑠璃子の愛の担保のようでもある。いつでも心中できるという担保。愛は死の如く強しということの担保。

「人が死んだ海になんか入りたくないわね」と瑠璃子が言ったその海に、しほと一緒に入る聡。そのとき浜辺で本を読んでいた瑠璃子の許に春夫が突然姿を見せ、彼女の手をとる。だが、砂の上の瑠璃子の手をとるという行為を、聡も反復する。瑠璃子が可愛がっていた犬のビンゴが死んだ時、ビンゴの埋葬のために聡が掘った穴に、ビンゴと一緒に入って横たわる瑠璃子を、聡が手を伸ばして引き上げるのだ。互いへの裏切りや、死との交錯、すれ違いが、そのまま間接的なかたちでの愛の交し合いでもある、不思議な関係の瑠璃子と聡。

瑠璃子が信じていたジャガイモの毒は大した毒ではなかったが、ビンゴを飼っていた老婆・君枝(風見章子)の庭には、トリカブトという、本物の毒を持つ植物がある。そして、寂しかったからそれで夫を殺したと言う君枝。愛と死の結びつきの深さという点で、この老婆は瑠璃子の数倍の年輪を感じさせる。そして君枝は、夫の骨壷と思えた容器から砂糖を掬い、コーヒーに注ぐのだ。

瑠璃子がテディ・ベアを作るシーンも、ただの甘ったるい営みではなく、ベアの目に針を通す光景に見られるような残酷さがある。また、春夫の恋人・美也子(安藤サクラ)がベアのことを寂しい存在だと語るように、ギャラリーに展示されたベアたちは、それぞれ一体ずつ、石柱のような高い台の上に置かれている。ラスト・シーンで登美子(黒川芽以)の結婚祝いとして箱に入れられた二体のベアも、赤と白のバラの花弁と一緒に寝かされた姿が、まるで、並んで棺に入れられているようだ。

「死」と「愛」が、砂糖とコーヒーのように溶け合い、「夫婦がうまくいく秘訣」として瑠璃子が語る「真実(白いバラに象徴される)」と「情熱(赤いバラ)」が、夫婦間ではなく、それぞれが外に持つ恋人との間でのみ成立している逆説。逆説的なのは、恋人との触れ合いが、巧みな編集によって、夫婦のそれと重ねられていることだ。情事の後、春夫が瑠璃子に「送っていくよ」と言った次のシーンで、車の天井から体を出している瑠璃子の姿が見えるが、彼女が乗っているのは聡が運転する車であること。瑠璃子が窓ガラスに手のひらを当てているその薬指には結婚指輪、それに重なるように挿入される、聡が水族館の水槽のガラスに当てている手にも指輪、だがその手にしほの手が重なる、というカット割り。

外の恋人との関係を深める以前の瑠璃子と聡は、その噛み合わない会話もさることながら、瑠璃子が「お帰りなさい」と聡を迎えた時、彼がイヤホンをしていて、彼女の言葉を聞いていない様子であるシーンに見られるように、とにかく「聞いているようで聞いていない」というズレによって、互いの齟齬が感じとれる。聡は、鍵をかけた自分の部屋でゲームをしながら大音量で音楽を流し、瑠璃子がノックする音も聞こえていない。すぐ傍に居ながらも、彼女から携帯電話に連絡を受けることで、ようやく気づくのだ。

だが、嘘が重ねられ、恋人との情事が重ねられるにつれ(瑠璃子と聡はセックスレス)、却って瑠璃子と聡は、互いの許へ帰ろうとしているようでもある。例えば、先述の、聡がしほの勤務中に水族館を訪ねるシーン。しほは「恋人同士に見せる方が違和感ないですよ」と聡と腕を組むが、そのまま二人が、小さな水槽のある静かな暗がりに入り、二人きりになったところで、聡は「仕事を思い出した」と告げ、独りエスカレーターに乗って去る。上昇するエスカレーターに立つ聡と、ピントの合わされていないしほのおぼろげな姿が遠のいていく様を、同時に捉えたショット。恋人との関係が本物になろうとすればするほど、むしろ恋人との距離感が、深く刻み込まれることになる。

決定的なのは、瑠璃子が春夫から、美也子と別れたことを告げられるシーン。瑠璃子の「人は守りたいものに嘘をつくの。或いは守ろうとするものに。私が聡に嘘をつくように、あなたが美也子さんに嘘をつくように」の台詞に続く、「でもあなたを愛してるわ」の一言が、甘さも柔らかさもまるで無く、むしろ黒々とした鉛のような冷たい重さを孕んだ声によって発せられる瞬間の戦慄。瑠璃子を見送る春夫が「また」と笑顔で声をかけるカットは、だが、その「また」はやってこないであろうことを無言の内に語っている。

「私、窓って好きよ。外は夜でも、窓のこちら側は安全」。窓の外が真っ暗な夜に、瑠璃子は聡にそう語っていた。瑠璃子が朝ベランダで、窓の格子に嵌められたガラスを拭きながら、ガラスの向こうの聡に向けて、「オハヨウ」の形に口を動かしてみせるシーン。この優しさと距離こそが、二人の関係性なのだ。瑠璃子が、夫との旅行先まで追ってきた春夫と情事を交わした後のシーンで彼女は「聡は、私の窓なの」と言う。だが次のシーン、瑠璃子は聡と並んで寝ているが、その部屋には窓が無く、障子しかない。瑠璃子は、安心して眠れない様子でいる。

瑠璃子が春夫の部屋で逢い引きをするシーンでは、瑠璃子が窓の外を独り眺めるカットが挿入される。窓ガラスには、草叢が映っている。旅行先での逢い引きのシーンでさえ、瑠璃子が外を見つめる窓ガラスには、椰子の木が映っている。その旅行先で聡がしほとスキューバ・ダイビングをするシーンでも、辺り一面緑色で、二人の他には、水草しか見えないのだ。瑠璃子と聡の不倫の場面は、そうした所でも照応し合っている。

窓といえば、繰り返し現れる電車の窓も忘れられない。特に、瑠璃子と聡が一緒に電車に乗っているシーンでの、二人がドアの左右の窓ガラスにそれぞれ映っているショット。この時、瑠璃子が「手をつなごう」と言うのだが、ドアが開き、恰も二人が左右に引き裂かれたような光景が現れる。二人の会話する声は聞こえ続けているのだが、再びドアが閉まったときには、二人の姿はガラスに映っていない。この夫婦が共有しているのは、互いの「不在」なのだ。

瑠璃子、聡、春夫、美也子の四人で食事をするシーンでは、それこそ窓も無いような密閉空間そのものが緊張感をもたらし、表面的には和気藹々とした様子には倒錯的な雰囲気さえ漂う。加えて、食事をする部屋が狭いことで、カメラのアングルによって「聡+春夫」「瑠璃子+美也子」「瑠璃子+聡」と、カットごとに組み合わせが変わり、静かな中にも劇的なドラマが生じている。

このように、一つのショットに誰がどのように収まっているか、或いは不在かということに常に意識的な空間演出。タイトル・バックでは、聡をドアの向こうに送った瑠璃子が一人佇むショットにタイトルが浮かび上がっていたが、ラスト・シーンでは、結婚式に向かう二人が去った室内のその「不在」の空間に、夫婦の間の穏やかな親密さと、緊迫した齟齬とが、共に封じ込められている。このカットでは、室内に淡々と刻まれる時計の音が印象的だが、それは、この時計が瑠璃子によってネジを巻かれることで動いていること、つまり時はそれ自体で自然に流れるのではなく、瑠璃子と聡が毎日の生活の繰り返しを重ねることで初めて刻まれるものであることが、あの時計のチク、タク、によって感じとれるからだ。死/不在の共有としての、結婚生活。

出演陣を振り返ると、中谷も素晴らしかったが、大森南朋も劣らず素晴らしい。聡という役柄は、殆ど受身一方でそれらしい主張も無いにも関わらず、決してその存在感を希薄にさせなかった。むしろ、受身であること、存在を主張しないことの存在感を醸し出していて見事。池脇も、瑠璃子とは対照的な、柔らかく、健やかな明るさを放つしほを愛らしく演じていて良い。更には、最初は春夫のオマケのような、殆どどうでもいいような雰囲気で登場した安藤サクラが、踏み切りで瑠璃子と対峙するシーンではしっかりと自立した存在感を放っていたのも忘れ難い。

また、一見すると、浮世離れした奇麗な画面で終わりそうでいながら、瑠璃子が利用するビデオレンタル店や、聡と歩くバラ園の卑近さ、聡のビデオゲームといった日常性を画面に取り入れている点も、単調な統一性で画面を閉じまいとする意思が感じられる。

聡が瑠璃子を腕に入れる際、瑠璃子が春夫に抱かれるときのような、ギュッと抱きしめるようにはしない。腕が輪をつくった空間に、瑠璃子がそっと収まるようにする。「窓」――つまり瑠璃子を、安心できる空間に入れる存在としての、聡。

(評価:★4)

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