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[コメント] パーマネント野ばら(2010/日)

回想や夢想のシーン、映画内に於けるその本来的不安定さは、映画の中の「現実」のあやうさをこそ示している。小津ゴダールをつい想起してしまうような画面の連鎖が、それでいてよくも悪しくも人間の物語にしっかり着地する。〔3.5〕

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







夢想から映画が始まる。しかし、映画の中の夢想とされる(らしい)シークエンスと現実とされる(らしい)シークエンスと、そのどちらがほんとうに「現実」であるか、あるいはまた回想という展開に於いても、そこで現在とされる(らしい)シークエンスと過去とされる(らしい)シークエンスと、そのどちらがほんとうに「現在」であるか、などということは、じつは映画の中で(画面の中で)はっきりさせることは難しいことなのではないか。この映画の中の江口洋介に絡む妄想のシークエンスは、そういう意味で脚本上で微妙に浮いているのが判ってくるし(主人公以外の人物との絡みがない)、それを踏まえてだろうが、演出上でその覚束なさを暗示してもいる(トンネルの中の別れ際の画面演出など)。

画面のつなぎなどに見て取れる自意識のありようは、小津ゴダールという名前を意識させもするが、つまりかの人達は、映画の画面がごく当たり前に“つながって”流れているように見える、その現実に注意した人達である筈で、そしてその現実は、じつは私達の生身の現実がそうであるように、恒常化した奇跡とも言うべき何かなのでもある。この映画はそんな映画という媒体の本来的に不安定なありようを作劇の中に胚胎させつつ、それを結果的には「物語」へと着地させる。この映画の中の回想や夢想のシーンの所在の不安定さは、そこで「主人公の妄想」という着地点を示されて「物語」として回収される。それはよしあしではある。しかしそれによって、何より画面がひと際輝いて見えてくるという、それこそはこの映画の命となっているのではないか。

小池栄子池脇千鶴もいい。彼女らのドタバタとした身振り手振りは、ある種簡易なスラップスティックのりで演出されているように見え、画面への意図というものを感じる。しかし何より菅野美穂がすばらしい。そのアジア人的湿度を含んだ肌艶がある種の精神的暗部をほのめかしつつ、それが最後は大らかな海(ゴダール…)の光の返照を受けて、朗らかに「人間」を回復する。そのラストショットが何より感動的に見えた。映画に於ける人間や物語の肯定というのは、こういうものである筈だと思えた。

(評価:★3)

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