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[コメント] ケンタとジュンとカヨちゃんの国(2010/日)

役者の存在感ある肉体性を、彼岸としての「網走」や「海」、「外国」、「壁」について生硬に語る台詞、多部未華子の人物造形、エンディング曲等々の記号が殺す。映画的コードという「壁」に囲われた中での「彼岸への逃避行」ごっこ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







突如として画面から意識が遊離し彼(彼女)自身の孤独の内へと引き篭もるような低音のボイスオーバーの挿入は、生硬ながらも一応は有効としておきたい。「私を愛して」等の、幼稚な女という設定を鑑みても脚本自体が幼稚とも思える台詞を与えられた観もある安藤サクラだが、「ブス」と自覚しまた高良健吾から指摘されもするそのどうしようもない役柄がどこかキュートにも思えてくる独得の味わいを醸し出す。映画の公開年と同年に上演された舞台『裏切りの街』でも、ヒモの恋人から金をせびられる女を演じていたが、そうした、踏みつけられながらも生温かい母性で包み込むような役柄が妙に合っている。

ブスでバカでそのうえワキガという迷惑キャラの彼女が途中であっけなく強制退場させられ、しばらく画面に復帰してこないのが僕としては惜しく思えた。少なくとも車を捨てるまではワキガ女として物語に介入し続けてくれた方が面白味があった筈。バイクへ移行した段階で彼女が何らかの理由で去る、という流れならば、車内という閉鎖空間で他者の煩わしさと温度を感じ続ける状況から、松田翔太と高良がそれぞれのバイクに乗り、解放的になると同時に互いが隔絶した関係性に移るという形で、さり気なくも決定的なドラマが生じたのではないだろうか。

全篇を覆う幼稚かつ生硬な記号性から例外的に逃れているのは、柄本佑の、可傷性を引き受けつつも明朗さを発散することの存在感や、その母・洞口依子の徹底して内攻性へと集束した暴力性、加えて、柄本が世話をしているらしい知的障碍者たちの様子など(柄本の台詞によって「行き場所が無い」人たちとしてやや安直に意味づけられてはいるが)。タイトルを張っているメインの三人の関係性とまるで無関係なシークェンスが白眉という辺りに、この映画のよく分からないバランス感覚のおかしさが認められる。

宮崎将の「熱っぽい無表情」とでもいった演技は深い印象を残すが、面会室の仕切りガラスという透明な「壁」を挿んで弟・松田と対峙する彼は、「壁」の破壊のその先を知る者として、地の果ての網走に位置づけられ、「壊した先」には何もないのだという台詞によって、松田の希望を打ち砕き、最大の「壁」として立ち塞がることになる。このことは、高良の「カズ君(宮崎)は凄いよ」という台詞に対する「兄貴の、何が凄いんだよ」と食ってかかる松田の台詞によって既に予告されてもいただろう。しかしまったく、大森立嗣よあんたはキム・ギドクかと言いたくなるほど構図が明瞭。

そもそも、ケンタとジュンが「海」の向こうの「外国」によせる、漠然とした彼岸性への憧れは、現代のような、メディアや通信機器が発達した時代の若者の意識としては、ちょっとあり得ないような時代錯誤。海の水平線の向こうに、茫漠とした、虚無とも無限ともつかない彼岸をイメージする……、そんな奴らが今どき居るか?地球の裏の世界さえ瞬時にネットを通じて伝わってきてしまうような、本格的に地球が丸い有限の環境と感じられるこの時代を完全に無視した、映画的お約束としての「海」。いかにも今という時代を描いているかのようでいて、その彼岸イメージはむしろ古代人の方に近いくらいだ。そんな状態で『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』と「国」をタイトルに持ってくる感覚には、空しい溜め息が出てくる。

役者は皆いい仕事をしていた、というか、存在感を持ってそこに居てくれた、と言った方がいいのだが、他ならぬ大森監督が彼らを囲む見えざる「壁」であるかのような箱庭感覚の「往く当てのない旅」モノ。監督自身は、所詮はベニヤ板の上の絵と大して変わらぬ嘘でしかない映画的制度としてのコードに囲まれて、安心しきっている。そんな人間が「壁」の破壊について云々するなど噴飯モノでしかない。確かに映画的コードが要請される必然性というものはあるし、映画というのは結局は現実をフレームとカットで切り取った虚構でしかないのも今さら言うまでもないのだが、その一方で、現実をカメラという刃物で切り取ってゴロンと提示してしまえるぶっきら棒な唯物論性もまた映画の力。本作で唯物論的(material=素材・物質の自己肯定)だったのは、役者の肉体と幾つかの風景といったところだが、それを映画的コードが、作品の世界観としてベニヤ板(ケンタとジュンを最初に囲んでいた「壁」)のように囲い込んでしまうことで、矮小な箱庭と化してしまう。

「壁」の破壊について観念的に喋々する暇があるのなら、『壁の破壊』(ルイ・リュミエール監督)ふうに黙々と延々と破壊を見せてくれたほうがいい。そうして、破壊の快感がいつしか徒労感や退屈さに侵食されていきさえすれば、下らぬ台詞や記号の氾濫よりも響くものがあった筈。敢えて言おう、映画的コードの追認は映画の否定である、と。この追認がいかにも無自覚な様子で行なわれているだけに、余計にバカバカしい気分になる。

世界の果てとしての「海」を歩いていく青年二人や、路上に投げ出されて、呆然としつつも或る意志を感じさせる女の顔で物語を閉じるといういかにも映画的な虚構性で終わらせてみたところで既存のイメージの再生産に過ぎないのではないか。「壁」の破壊の先に何も無いというのはいいが、その「壁」自体が紙の上に描いた絵のような虚構性を纏っていては、何を言ったところで弱々しい声にしかならないのではないか。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)赤い戦車[*]

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