[コメント] 悪人(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原作は未読。 2点にしようか迷ったのですが、この作品の受け止められ方を加味してあえて1点にしました。
地方の閉塞感というのは僕にはわからないのですが、殺人という高レベルのモラルが崩壊するほどのことなのでしょうか?単なる逃避行とはわけが違います。これは単に僕には共感できない部分ということですが…
出頭しようとしている祐一を思わず止めた光代はなぜそこまで深入りしたのか。祐一のどこに惹かれたのか。祐一の心の内を"あの時点で"どれほど知っていたのか。関係が浅すぎないか???顔に惚れた?もしかして状況?何もかも忘れて飛び出そう!ってな感じ?あの時点で深く愛しているのでもない限り、彼女の日常のストレスに対して問題が重過ぎる。
残酷な事件を耳にして、犯人を「悪人」として認識するのは、それによって自分とは違う人種だと思いたい心理が働いているであろう。あいつは元々悪人だったのだ、と。この作品は、そこに疑問を持ち、本当にそれでいいの?ということを言いたかったように思う。しかし、このストーリーは、殺人犯を善良な市民に引き寄せる作業であり、犯罪そのものを軽く受け止めることになりかねない。最悪な結果として出てしまった「殺人」という悪行は揺るがない位置に置いておかないと駄目。周囲の間接的な加害者・増尾や被害者・佳乃だって、一般の中ではちょっと問題ある人たちに映り、別の人種として捉えてられてしまうと思う。距離を縮めるなら、善良な市民を近づけていかないといけないのではないだろうか。我々だって、いつか事件を起こさないとも限らない。簡単に悪人と呼んでしまうが、そういう別人種がいるわけでなく、そうでなかった者が、悪行を働いたことによりそう呼ばれるようになるのだ。そういう結論にならんと怖いよ・・・・
ところで祐一に関する描写、裕福ではなさそうな暮らし。厳しい肉体労働とその疲れた身体で祖父の介護や地域のお年寄りの病院付き添いなど。それが彼の心の優しさを物語る決定的な要素にはなり得ない。心の内などわからないのに、人の嫌がる仕事をしているだけで、感心したり、良い人だと思うのは安易過ぎる。あれを祐一の日常のストレスとして描いているのなら観客に上手く伝わってないことになる。挙句の果てにラストの夕日(朝日?)を光代に見せる場面。あれがいったい何だというのだ。彼女に愛情を抱いている時点でそれは彼女を喜ばせたいという"自分の気持ち"に忠実に行動しているのだ。光代を殺そうとしている場面を見せ、自ら悪人と印象付ける行動だってそうだ。その後の光代の気持ちを考えてるとは思えない。つまり祐一は、最初から最後まで、自分の都合しか考えない人間に見えた。だからこそ、僕は彼を悪人と認識します。
最後に、久石譲の音楽は、終始邪魔でした。感情に先行してしまっていて、興ざめしました。
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