[コメント] 大奥(2010/日)
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原作未読であるが、多々あるエピソードの中から、タイトルにすらなっている異常な舞台を根底から覆し、ハッピーエンドにもって行く強引な人物に話の焦点を合わせた挿話を選んだ、そのやり方は無難すぎて肩透かしを食らった。一人の女性が支配する美男だけの閉鎖空間と言う魅力的な設定は、二宮と堀北真希のあいだのごく普通の(つまりこの世界においては稀有だが、我々の世界においては真っ当な)恋愛の成就に次ぐ、付け足しのような展開のなかで完膚なきまでに崩壊する。
それは劇伴音楽の高まりとともにそれなりに盛り上がり、不覚にも自分すらジンと来た展開だったのだが、これはよく出来た映画だからでは決してない。あまりにも判りやすい大団円だったからだ。それに気づいた時、自分の俗物性が無性にハラが立った。
この物語は「逆転した大奥」を描くことがツボだったのではないのか。いわゆる女の園に存在する嫉妬や妬み、閉鎖された空間内での同性愛、美しくなるための競演を男が演じることにスパイスを効かすべきではないのか。少女向けのラノベや漫画にすらそれに似た、いわゆる「やおい」的なエッセンスに満ち溢れた作品は腐るほどあるのに、なぜそれらより「普通の」「一般人向けの」展開を選ぶか、といえばたぶん答えは、監督は普通の性的嗜好をもつ人間だから、なのだろう。それがまことにつまらない。
『ヤプー』の主人公は日本人の男子であるがゆえに、彼にとっては地獄のような未来社会に放り込まれ苦悩し、煩悶するが、やがて恋人だったドイツ人女性を女神と崇めることによって意識改革を行ない、自分を虐待する世界を天国とすら考えるようになる。それと同レベルの「不合理な世界への順応」を描くことは、作者自身がマゾヒストであるような状態でなければ難しくもあろう。しかし敢えてスタッフに問いたいのは、地獄を極楽にするのはなにも性的嗜好のみゆえではないということだ。
「想像力」がなければいいSFは生まれない。
それは別に格言や思想ではなく、普通に考えられる理屈だ。百歩譲って、二宮のハッピーエンドを認めてもいい。だがそれは例外の一ケースであり、ほとんどの男にとって「大奥」は必要な場所であった、とならなければ想像力不在の愚作になるだけだ。
嘘をつくならでかい嘘をつけ、とアドルフ・ヒトラーも言っているだろう?
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