[コメント] チェブラーシカ(2010/日)
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マーシャが登場する第二話と奇術師が登場する第三話がそれに続くわけだが、これらもよくできている。やはりスタッフの多くを日本人が占めるからか、それとも現代の作だからか、「生き別れた祖父と孫娘の再会」という物語の大枠にしてもキャラクタのリアクションのような細部にしても、情緒的な共感の大きさや論理的な明晰さはむしろカチャーノフの旧作群よりも大きい。しかし、それとは引き換えに、意味不明な「面白さ」と同義であるところの奇天烈な演出の跳躍力はかなりの程度で失われている。奇天烈な演出の跳躍力が発揮されている箇所とは、たとえば第一話「ワニのゲーナ」において、チェブラーシカの名づけ人となる果物屋のおっさんが守衛の代わりに動物園の門前に立つときの無表情ぶりであるとか、電話ボックスでひとりチェブラーシカがめちゃ哀しそうな顔をしながら独楽を回しているところなどである。
そして、旧作群においても認められた傾向が推し進められて、ここでのチェブラーシカはもはや主人公の立場から退いてしまっている。彼は何もしない。「役立たず」である。物語の中心にいるのはマーシャと祖父の奇術師であり、彼らに何らかのアクションを働きかける(すなわち「主人公」と呼ぶにふさわしい)のはもっぱらゲーナだ。作劇の観点から云えば、チェブラーシカはさしたる理由もなくゲーナの周囲をうろついている「付属品」にすぎない。『チェブラーシカ』とはそのような映画、つまり、そういう正体不明で役立たずの付属品、だが確かに精いっぱい生きてもいるチェブラーシカのような存在を肯定する映画だ。
それはこの映画で最も感動的なシーンにおいてさらに明らかだ。露語版エンディング・クレジットが終えると、引き続き切なさで胸を掻き乱す名曲“Goluboy Vagon”に乗せて、舞台となった町の日常風景が写し出される。そこには主要キャラクタだったはずのチェブラーシカ・ゲーナ・シャパクリャクを除く全員が登場する。老いも若きも男も女も人間も動物も相和して生きる感動的な、しかもそれがまったく当然のこととして振舞われている日常の風景。これは、だから、ユートピアだ。チェブラーシカが存在し、またその存在の肯定が保証されている限りにおいては、ユートピアの映画『チェブラーシカ』の画面上にチェブラーシカ本人が登場する必要すらもはやないということ。それがこの二〇一〇年版『チェブラーシカ』が到達した過激で正当で感動的な結論である。
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