[コメント] キッド(1921/米)
またそのすぐ後に、子供の父親と思しき男性のシーンが来て、暖炉の上のパーヴィアンスの写真が矢張りディゾルブ繋ぎで寄ったり引いたりされ、あげく、ふとしたはずみで暖炉の火の中に落ちるのだが、この男性は写真をいったん取り上げたのに、すぐに無頓着というか、まるで要らない物のように火の中に放り込む。実は、私はこの一連の勿体ぶったディゾルブを多用する冒頭の構成には違和感を覚える。
キリストについては、中盤以降、チャップリンとクーガンが食事前や就寝前に、律儀に(かつユーモラスに)お祈りをする演出が繰り出されたり、パーヴィアンスがチャップリンの喧嘩を仲裁する際に「右の頬を打たれたら左の頬を」というイエスの言葉を引用するし、あるいは、天使と悪魔イメージも出てくるので、見る者を回帰させる伏線みたいなものとも云えるけれど、パーヴィアンスの写真を暖炉の火にくべてしまった男性は、以降再登場しない。また、ディゾルブ繋ぎも以降、パーヴィアンスが赤ん坊を自動車の中に置き去りにした辺りから、ラストまで、シーケンスの境界を除いてほとんど使われていない。
上記の違和感は演出というよりは、プロット設計にまつわる部分と云った方がいいだろう。そういう意味で云うと、5年の月日がたち、大スターになったパーヴィアンスが慈善活動中にクーガンと出会う場面の捻りの無さや、少し前まで元気にイジメっ子とボクシングみたいな喧嘩をしていたクーガンが突然パーヴィアンスに抱きかかえられて病気になっているといった強引な展開、あるいは、有無を云わさずクーガンを連れて行こうとする孤児院の所業から、終盤の再会へ至る畳み掛けの作劇まで含めて、実は、チャップリンはプロット構成にはほとんど重きを置いていなかったのではないか、といった感想を持った。やっぱり、映画は物語ではなく、画面造型だ。それは多くは人物(被写体)の配置であり、その動きであり、その存在感だ。モーションピクチャーとしての映画は、まず被写体の魅力で支えるべきだということだと思う。尚、冗長とも思える終盤の「夢の国」シーケンスについても私は大好きだ。チャップリンの「夢」の造型はどれも良いものだと思う。
#クーガンがボクシングみたいな喧嘩をするシーンで出てくる怖いお兄さんは、チャック・ライスナー(チャールズ・F・ライスナー)だ。後に『キートンの蒸気船』などの監督になる。
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