[コメント] キッド(1921/米)
アクション過多からの脱却を試みるドラマ性への執着に作劇の嫌らしさが垣間見えるSO-SO作品
本作制作開始の直前に、チャップリンの第一子が亡くなったことが、チャーリーの子供に対する親密な愛情表現に繋がっているとされる物語である。そうした秘話を受けて「作劇の嫌らしさが見える」とはなんとも無情な言い草のようにも思えてきたが、流石にドラマの着地点が想像できる分、出来すぎなプロットの配置はどこかすわりが悪く、さらにそうした常套手段的な布石を確実な抒情に持っていくだけのレトリックが乏しい為、潜在的な感動の金脈を掘り当てることには成功していない。悪く言えば、感動話法の公式にちゃんと嵌め込んだ‘お仕事’作品と言っては言いすぎだろうか?志村けんが80年代に「志村けんのだいじょぶだぁ」をやっていた頃、多くのコントの中にまぎれて「シリアス無言劇」なるショートドラマがあった。志村曰く「人を笑わせることができるなら、人を泣かせることくらい簡単」と豪語したことから制作されたものらしいのだが、作劇の感覚としてはこれと同質のものであると感じた。狙い通りの感動に少なからず達していることは認めるとしても、琴線に触れるという境地には及ばないという点で実に標準的な映画である。それでもチャップリンのフィルモグラフィにおいて、ドラマ性への志向が如実に表れたプロパー作品である意味においてたいへん貴重であり、それを成すところのジャッキー・クーガンの存在は大きい。
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